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Music People Vol.80 片岡寛晶

私の音楽遍歴

こんにちは、作曲の片岡 寛晶です。
作曲家としてデビューし今年で15周年を迎えました。日頃より、自作曲のご愛顧を心より感謝申し上げます。

今回のミュージックピープルは、私、片岡が担当いたします。普段は語る事のない、私の音楽遍歴をどうぞご覧ください。


【1983年~1995年 幼少期…音楽は好きだけど、楽譜は嫌い!】

幼い頃から童謡が好きで、カセットテープが伸びるまで聞き続けていました。 音階(ドレミ)は分かっていませんでしたが、おもちゃのピアノで旋律を探っている姿を見ていた祖母が、ピアノを購入し、習わせてくれました。

ピアノを始めた事で、それなりのテクニックは身に付きましたが、読譜力がいつまで経っても乏しいままで、先生から頻繁に叱られていました。読めない→怒られる→楽譜が嫌いになる、という悪循環です。(ピアノの先生方、あの頃の事をお許しください)

ですが、楽譜が読めなかった事で得た“芸”がありました。それは聴奏力です。
スピーカーから流れ出る音を聞けば、ピアノで再現ができる力が自然と身についていました。
小学校時代最後の発表会では、演奏するショパンのワルツまでもが、楽譜を見ず、耳コピだけで乗り切ったのですから、我ながらよくやったとものだと、今振り返ると驚くばかりです。(現在の私に聴奏力は…あまりありません。笑)

その後、ピアノだけでなく、箏やドラムを習った事で、私にとって音楽は身近な存在となりました。


【1995年~1998年 中学時代…吹奏楽との出会い~仲間と奏でる楽しき時間】

父は地元の一般バンド(飯塚吹奏楽団)でクラリネットを吹いており(現在も吹いています)、その影響で、小学校高学年になる頃には、クラリネットのソロ作品や吹奏楽にも興味を持ち始め、中学校に上がると、友達を誘い吹奏楽部に入りました。

父から楽器を譲り受け、クラリネットを始めたものの、ピアノのように簡単には音が出ず、細かなテクニックを要する管楽器の難しさを痛感する日々で、ようやく安定した音が出せるようになった時は、嬉しいものでした。
周りの人たちが譜読みをしている姿を目の当たりにし、私自身にも変化が…
自分も楽譜を読んでみようかな。

自ら譜読みをするようになり、その後コツを掴んだのか、入部し2か月ほどで楽譜嫌いを克服。食わず嫌いならぬ、読まず嫌いだった私は、楽譜を読めば曲の展望が見えてくる事に感動を覚えました。

仲間と奏でる楽しき時間。吹奏楽を通じて、自分の音楽を磨き、いつかは音楽で食べていけるようになりたいと思い、地元の飯塚市を離れ、音楽科のある福岡市の高校へ進学する運びとなりました。


【1998年~2001年 高校時代…お前は天才だ!打楽器へ行け!】

高校に入学した当初、私はクラリネット専攻でしたが、打楽器の人手が足りていないという理由で、1年生の時は、助っ人として打楽器を担当しました。
夏のコンクールが終わった数日後、顧問の先生に呼び出されこのように告げられました…

「お前は天才だ!打楽器へ行け!」

この言葉に釣られてしまったのです。

ピアノを弾く楽しみ、クラリネットを吹く楽しみ、次は打楽器を通して叩く楽しみが知れたら、今後の音楽の肥やしになるのでは⁉…と、天才だと言われた事に機嫌をよくした私は、迷うことなく打楽器に変わったのでした。
ただ、今思えば、これは先生の策略だったのかもしれません。クラリネットの同学年は5人、打楽器は「0」でしたので。(笑)

以前から即興演奏を通じて、作曲や編曲をするのが好きでした。高校2年になると、作曲の先生の下、和声課題のレッスンに通い始めました。
私は不真面目な生徒でしたので、レッスンの成果があったのかなかったのかは分かりませんが、部活内において、演奏したい曲の楽譜がなければ、ポップスや合唱のアレンジは私が担当をしていました。(今現在の私に近いような真似事をしていました)

高校3年生の最後のコンクールでは、普門館のステージにも立つことが出来、すっかり自信をつけた私は、音大受験も当然受かるつもりでいました。
打楽器で大学に入るのか、作曲で大学に入るのか…

しかしながら、そんな中途半端な甘い考えで大学受験が通用する事はなく、安易な気持ちで受けた打楽器科の試験は、ものの見事に全て落ちてしまいました。



【2001年~2002年 浪人時代…お金を貰って音楽をするという事~自身との闘いの日々】

男の浪人は人生の勲章!
なんて事が言われていた22年前。その言葉を鵜吞みにしてスタートした浪人生活は、起きる時間も、食べる時間も、寝る時間も、練習する時間だって…何をするにしても自由。自身に甘えがあると、一日があっという間に終わってしまいます。

コンビニで早朝バイトをし、貰った給料を握りしめ、月に一度、東京まで打楽器のレッスンに通いました。
高校時代に身に付いていなかったテクニックをマスターしていくなかで、打楽器の奥深さを知り感銘を受けた私は、今度こそ受験に対して本気で挑んでみようという意志が、ようやく持てるようになったのでした。

浪人生活も半年が経った頃、福岡市消防音楽隊が、急遽、打楽器奏者を募集しているとの事で、3月までの短期契約という条件付きで入隊する事になりました。

音楽を仕事にするという幸せを嚙締め、任期満了までの間、隊員の皆さんに大変良くしていただき、最高の環境で音楽が出来た経験は一生忘れられない思い出です。
大学合格に向け更に練習に熱が入った事は言うまでもありません。

春、サクラサク。


【2002年~2006年 大学時代…模索する日々~打楽器だけじゃなくてもいい。自分らしくいこう!】

浪人を経て、希望を胸に大学に入学したはずが、何かが物足りない…
自分は何がやりたいのか。そんな心の迷いがある中で始まった大学進学は、私が思い描いた生活とは少々異なるものでした。

現代音楽やオーケストラなど、打楽器の専門知識を身に付けていく中で、悩みながらようやく見つけだした答え…それは、

私は打楽器奏者になりたいのではなく、作曲も出来る打楽器奏者になりたいという事でした。
それに気がつけた事で、気持ちがスッと楽になった事を今も鮮明に記憶しています。

私の通っていた大学では、副科制度が充実していました。(今はシステムが変わっているかもしれませんが)
追加の授業料を納める事で、主科の学生たちと同じレッスンを受ける事が出来るというもので、この制度を適用し、大学2年から作曲の勉強を再びやり始め、作曲科の試演会にも積極的に参加するようになりました。
私の活動を評価してくださった作曲の先生方の推薦により、韓国で開催された尹 伊桑(ユン・イサン)国際音楽祭への参加をはじめ、学外演奏会にも数多く出演させて頂きました。
自作自演など、作曲を通じて音楽仲間にも恵まれた事は人生の大きな宝物となりました。

大学時代、私に大きな影響を与えて下さった5人の先生がいます。今の私の創る音楽は、こちらの先生方から日々学んだものが礎となり、木の根のように繋がっています。一言ずつ添えてご紹介します。

・菅原 淳 先生
先生の演奏姿に感動し打楽器を続けたいと思いました。打楽器の可能性を教えてくださいました。

・有賀 誠門 先生
身体から発するエネルギーは、音楽においてもそれらが全て繋がっていることを教えてくださいました。

・坪能 克裕 先生
音楽づくりの基本や、音楽業界のイロハを教えてくださいました。

・藤原 豊 先生
いつも親身になって、数々の作品のアドバイスをしてくださいました。

・汐澤 安彦 先生
音の粘りやウネリ、アウフタクトの大切さを教えてくださいました。

各師には感謝の気持ちでいっぱいです。



【2008年 デビュー作…天馬の道】

大学卒業後は、プロのオーケストラや吹奏楽団、邦楽合奏団の演奏会に打楽器のエキストラとして参加しながら、中学・高校の非常勤講師としても働かせて頂ける環境に恵まれました。

その後、私にとって大きな転機となったのは、吹奏楽コンクールの課題曲公募です。
大学時代から応募し続けること4回目の挑戦で初めて最終審査まで残り、幸運にも採用の知らせを受けた時は、天にも昇るような気持ちで、これまで生きてきた中で一番嬉しいと思える出来事でした。

課題曲に選ばれた事で、沢山の出会いがあり、輝かしいステージに自身が立てた事を誇りに思っていました。

これを機に売り込んでいくぞ!

作曲家としての第一歩は、まさに希望に満ちていました。


【2009年~2011年 低迷期…仕事がない、お金がない~葛藤の日々】

課題曲に採用された2008年は、どこへ行っても注目され、周りからもチヤホヤされることばかり。 今後も仕事は入ってくるだろうと、見切り発車で非常勤の仕事を辞めました。
しかしいつまで経っても、仕事の依頼が来ない…

ここから不遇の時代へと入ります。

仕事はなく、誰からも相手にされず、貯金を切り崩して生活費を捻出。毎晩、狂ったようにお酒を飲んでいました。
貯金が底をつくことも何度もありましたが、何故だかそんなピンチの度に小さな仕事が舞い込み、そのギャラでどうにか食い繋ぐ日々でした。

夢を追い求め、また課題曲に選ばれればと、作品の応募を続け、最終審査にその後も何度か駒を進めましたが採用には至りませんでした。

この時にようやく気が付きました。チヤホヤされていたのは課題曲に選ばれたからであって、自分の実力は無かったことを。

本当の意味での修行、試練が始まりました。


【2011年~ここから、作曲家としての人生が始まった】

東日本大震災の年。作曲家が作品を持ち寄ってレコーディングをし、売上金を義援金として被災地におくるプロジェクトが発足し、私も微力ながら参加をさせて頂きました。
その時に生まれたのが、『シロフォン・オブthe☆マジック』『ライト・オブ・アゲイン~シロフォンと吹奏楽のために』です(知る人ぞ知る)。

この頃から不思議と歯車が回り始め、少しずつ仕事が入るようになってきました。
海上自衛隊大湊音楽隊・委嘱作品『鳥之石楠船神~吹奏楽と打楽器群のための神話』、 飯塚吹奏楽団・委嘱作品『オリエントの光芒』、 希望が丘高校吹奏楽部・委嘱作品『マカーム・ダンス』や、プロの演奏者からの依頼によるコンチェルトなど、作曲の機会に恵まれた事は、これまでにない喜びと充実感でいっぱいでした。

今頂ける仕事を精一杯の力で取り組む。ただそれに尽きるものでした。


【2014年~世界に広がる片岡作品】

皆さんのお力添えもあり、国内で作品を取り上げて頂けるようになりました。
また近年では、ミッドウエストクリニックやWASBEの海外のステージにおいても、作品を演奏して頂く機会に恵まれ、打楽器を効果的に使ったオーケストレーションが評価された事を大変光栄に思います。
そして台湾では、吹奏楽コンクールにおいて、最も演奏された作曲家の一人として話題になり、外国の方々からも問い合わせを頂くようになりました。
自身の作品を通じて、海外に足を延ばしたことのない私。この広がっていく作品の輪を大切に、今後、自分の足で音楽の旅に出かけてみようと思っています。


【今できる事…今後の展望】

ロケットミュージックさんとお仕事をさせて頂く中で、助安社長からの言葉が私の胸に響きました。
「コロナ禍で、思うように活動が出来ない子供たちに音楽を届けたい。是非、曲を書いて欲しい」
この言葉を耳にし、自身が力になれる事を誇りに思い、作品を書く大きなエネルギーとなり筆を執りました。吹奏楽作品の『月魄狂詩曲』『ひのもとごう』は、13人~演奏が可能で、少ない人数でも厚みのあるサウンドで歌心溢れる作品です。子供たちへ、希望を持って取り組んで頂けると嬉しいです。

作曲家デビューから15年が経ちましたが、自身が持っている音楽観の根底にあるものはこれからもずっと変わることはありません。しかし、歳を重ね様々な経験をさせて頂く中で、自身の中に眠っている新たな曲の一面が顔を出そうとしています。

躍動感、ワクワク感、一体感、空気感、そして推進力を持って…

さあ次はどんな作品が書けるのか、未知なる挑戦が続きます。


【委嘱初演、レコーディングでこれまでにお世話になった団体 各位】

海上自衛隊大湊音楽隊、海上自衛隊横須賀音楽隊、海上自衛隊呉音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、陸上自衛隊中部方面音楽隊、陸上自衛隊中央音楽隊

大阪市音楽団、広島ウインドオーケストラ、フィルハーモニック・ウインズ大阪、尚美学園大学吹奏楽団、東京芸術大学、昭和音楽大学 昭和ウインド・シンフォニー、洗足学園音楽大学、広島文化学園音楽大学学科、早稲田吹奏楽団

Brass Concept、Project Brass、Brass Collection、寺田由美パーカッションアンサンブル「ドライヴ」、パーカッションミュージアム、HARROMI-YAH!!!、RAN、北九州マリンバオーケストラRIM

若林区吹奏楽団、土気シビックウインドオーケストラ、アンサンブルリベルテ吹奏楽団、シンフォニック・アンサンブル・リルト、大阪団、明石西シンフォニックバンド、防府吹奏楽団、飯塚吹奏楽団、コンフォート・ウインドアンサンブル、直鞍サクラ・シンフォニア、合志吹奏楽団『響』、ウィンドアンサンブルティラミス

福島県立喜多方高等学校吹奏楽部、仙台城南高等学校吹奏楽部、みやぎ総文私立合同バンド、千葉県立千葉工業高等学校吹奏楽部、千葉県立千葉商業高等学校、幕張総合高等学校シンフォニックオーケストラ部、千葉県立千葉商業高等学校吹奏楽部、千葉県立千葉南高等学校吹奏楽部、静岡学園高等学校吹奏楽部、新潟明訓高等学校吹奏楽部、新発田市立新発田南高等学校吹奏楽部、山梨県立富士河口湖高等学校吹奏楽部、北九州市立高等学校、福岡県立鞍手高等学校吹奏楽部、希望が丘高等学校吹奏楽部、飯塚高等学校吹奏楽部

天塩町立天塩中学校吹奏楽部、湯沢市立須川中学校吹奏楽部、会津高田町立高田中学校吹奏楽部、むさしのカルテット、浦安市立富岡中学校吹奏楽部、横浜市立中山中学校吹奏楽部、長野市立裾花中学校吹奏楽部、新潟市立関屋中学校吹奏楽部、新潟市立西川中学校吹奏楽部、白山市立北星中学校吹奏楽部、東大阪市立石切中学校吹奏楽部、福岡市立東光中学校吹奏楽部、北九州市立思永中学校吹奏楽部、川崎町立川崎中学校吹奏楽部、鞍手町立鞍手中学校吹奏楽部、芦屋町立芦屋中学校吹奏楽部、中間市立中間東中学校吹奏楽部、飯塚市立筑穂中学校吹奏楽部、飯塚市立二瀬中学校吹奏楽部、鹿島市立西部中学校吹奏楽部、龍郷町立龍南中学校吹奏楽部

真岡キッズハーモニー

 

 

 

片岡寛晶【かたおか・ひろあき】

1983年・福岡県飯塚市生まれ、東京都在住。

東京音楽大学を卒業後、朝日作曲賞に入選。自作曲【天馬の道】が、2008年度全日本吹奏楽コンクールの課題曲に選出された。その後、数々の作品が海外に広がりMidwest ClinicやWASBE(世界吹奏楽協会)のカンファレンスにおいて、打楽器をメインとしたオーケストレーションが評価され、多くの支持を得た。2015年・海上自衛隊横須賀音楽隊、2018年・海上自衛隊東京音楽隊の手によって、片岡 寛晶 作品集のCDがブレーン社より発売となった。2019年・2022年には、全日本吹奏楽コンクール作曲者別ランキング(小編成)にて1位を獲得。また、台湾の吹奏楽コンクールにおいては、最も演奏された作曲家の一人として話題になった。

近年では、吹奏楽作品だけでなく、校歌や市民歌の作曲、教育本の共著、ブライダル音楽のプロデュースも行い、各種コンクールの審査員などもつとめる。

北九州マリンバオーケストラRIM音楽監督、東京成徳大学非常勤講師。

 

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