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28.冥土の土産

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



28.冥土の土産

 音楽隊では次から次へと連続して地方での出張演奏会が続いていましたので、あまり練馬の駐屯地に帰ることはありませんでした。そのために下着などはたくさん持っていくことになっていました。当時も現在も、こんなに出張演奏会を行う音楽隊はなかったのではないかと思うくらいです。いくら私が吹奏楽に魅せられて入ったとは言え、トラックでの長い時間の移動はとても大変なものでした。この長期出張の何回目かに、身延山にある大きなお寺に泊まることになり、その夜お寺の本堂で演奏会を開催しました。その時、お寺の世話人さんが「こちらのおばあちゃんは2つの山を2日がかりで歩いて、冥土の土産に音楽を聴きたいと言ってここまで来たのですよ。」と腰の曲がったおばあさんを紹介してくれました。このおばあさんの姿を見て、北海道で暮らしていた当時の私のおばあちゃんを思い出しました。私のおばあちゃんはとても優しく私を大切に育ててくれました。農繁期には母はとても忙しかったので、ほとんどおばあちゃんのお世話になっていました。幼い時はおんぶをされて子守唄を歌ってもらっていました。“ねんねんころり ねんころり 坊やのおもりは どこへ行った あの山越えて 里へ行った”この子守唄を聴いて育ったので、冥土の土産に音楽を聴きたいというおばあさんは普通のおばあさんではないなと思ったのです。東京で11回目の転職先の連れ込み旅館で働いているときに、私のおばあちゃんは亡くなりました。危篤の電報が来ましたがお金が無く北海道へ帰ることが出来ませんでした。ほどなく2回目の電報で“ソボシス”の連絡がありました。おばあちゃんにお世話になったことのお礼を言えなかったこともあり、それから2~3日はずっと泣いていました。そんなこともあり、お寺のおばあさんは私のおばあちゃんが「この世が終わる前にヨッコの音楽を聴いてくれ」(ヨッコは私の小さい時のあだ名)と頼んだのではないかと思ったのでした。
 お寺の世話人さんと一緒に音楽隊の皆の前でおばあさんは曲がった腰をさらに折り曲げ、頭を下げてくれました。その姿を見て私は思わず泪をポトリポトリと落としてしまいました。きっと私のおばあちゃんは私の音楽好きを知っていたので、人を介して聴きにきたのではないかと自分なりに考えてしまったのです。そして「日本民謡メドレーを演奏して欲しいなぁ・・・」と思っていたところ、緒方隊長も同じことを考えていたのか「日本民謡メドレーをこれからおばあさんのために演奏します」と言ってくれました。今まで音楽隊に入ってからたくさんの演奏をしてきましたが、この夜ばかりは全く違ったものになりました。音譜ひとつひとつに魂を込めて愛を込めて、このおばあさんと私の亡くなったおばあちゃんのために全力で演奏しました。演奏しながらも泪がとめどなく流れ、楽譜が読めなくなり何回も何回も手で泪を払いながら約7分くらいの日本民謡メドレーの演奏をしました。音楽隊員の皆も私と同じように普通の演奏会と違い真心を込めて一生懸命に演奏をしていました。終わったあと、緒方隊長はおばあさんのところへ行き優しく肩をたたいて2つの山を2日がかりで越え、我々の音楽を聴きにきてくれたお礼を態度で表現して下さったことは、今でも昨日のごとく思い出すことが出来ます。私は「音楽隊はいいものだなぁ」とこの時に更に強く思いました。北海道のおばあちゃんも腰が曲がっていたので、腰の曲がったおばあさんを見た時に私のおばあちゃんではないかとの錯覚をしたので、その時の感動は半端なものではありませんでした。演奏が終わったあとに、音楽隊の皆の中でもこのおばあさんを目の前にして泪をこらえていた人もたくさんいました。この時に吹奏楽は人を救うことができると、理屈抜きに実感することが出来ました。私が吹奏楽を選んだことに間違いがなかったとこの時に再度思いました。そしてこれからも緒方隊長のように、私も吹奏楽を通してたくさんの人々に喜んでもらうために、力いっぱいやらなければならないと固い決意をしたのです。緒方隊長が腰の曲がったおばあさんの肩に優しく手を当てた愛情のこもった仕草、優しい眼差し、心で暖かく包み込んでいるような態度や吹奏楽に対する並々ならぬ熱意を、私も皆もただただ感動をもって見守る以外にありませんでした。演奏が終わってそれぞれの宿舎に帰った時も、その余韻は消えることはありませんでした。私はこの時の緒方隊長の行動を見て強く強く「これからは吹奏楽を通して緒方隊長のように生きて行こう。」と決心したのです。そして「私の小さい時からの夢を緒方隊長が実現している。この緒方隊長に褒めてもらえるような仕事をこれからしていこう。」と思ったのです。この機会は私にとりまして大きな大きな決意の場となったのでした。
 私が旭川市の旭橋の側で初めて聴いた吹奏楽から、自衛隊に入り古庄昌雄君に第1管区音楽隊に入れてもらい、そしてこの有名な身延山のお寺で出張演奏をして感動のるつぼに入るという体験が出来たことで、私の将来の方向性が決まったのです。緒方隊長の生き方をそのまま私の生き方にしなければ、緒方隊長の恩に報いることはできないと思いました。私をこのお寺に導いてくれ、おばあちゃんの冥土の土産のために演奏をしてくれたことは、単なる偶然ではなく何かの大きな力が働いてのものだと知ることが出来たように思いました。私は〝今後、吹奏楽を通して多くの人々のお役に立つために魂を込めて生命をかけて突き進んでいくことが私の使命である〟とこのとき深く深く感じることが出来ました。そしてお寺とおばあさんと緒方隊長がこのように仕組んでくれたように思いました。
 音楽隊に入ってからは奇跡の連続でしたが、私の人生を決めるほどの大きな奇跡は今後はもうあり得ないと思った程です。


 



助安由吉の作品集
音源ダウンロード
演歌 お父さんありがとう(歌:瞳 勝也)
お母さんありがとう(歌:若林 千恵子)
(1966年・31才の時)
歌謡曲 わが道(歌:助安 哲弥)
生まれた理由(歌:助安 哲弥)
(1994年・59才の時)
吹奏楽 愛のはばたき
ミドナイト イン トウキョウ
真珠採りの歌
駅馬車
(演奏:海上自衛隊東京音楽隊)
(1960年・25才の時)
環境詩 緑したたる地球を守ろう(ナレーション)
緑したたる地球を守ろう(英語版のナレーション)
(1971年・36才の時)

吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉

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