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27.緒方隊長との信頼関係

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



27.緒方隊長との信頼関係

 初めに吹奏楽に憧れを持ったのは中学を卒業した16才の時です。それからは吹奏楽が私の夢と希望の対象となりました。そして19才の時、両親の許しを得て東京に出てきました。そして東京で転々と職を変え、16回目の転職が自衛隊でした。自衛隊に入ったからといって音楽隊に入隊することは簡単ではありません。しかし幸いにも、緒方隊長の奥さまの弟さんである古庄昌雄君の口ききで、憧れの音楽隊に入ることができたのです。そしてそのあと緒方隊長は私を1ヶ月に1回は自宅に招待してくれていました。そこで奥さまの手料理をごちそうになったりと特別に目をかけて下さっていました。他の隊員は誰も招待していないとのことでしたので、きっと私に何かを感じて下さったのかも知れません。他の部隊で幹部として活躍している古庄君と一緒に4人で夕食を共にすることもありました。緒方隊長は「中学卒業だけでは社会に通用しないので、大変かも知れないけれど高校は卒業した方がよい」と言い、夜学に通わせて下さり将来のことまで考えて下さった私の大大恩人です。
 それからしばらく経ち、私は隊長付きと楽譜係を与えられて身に余る光栄でした。緒方隊長は演奏会をたくさん入れていて、断るということを決してする人ではありませんでした。8月の夏休みにはほとんど駐屯地にはおらず、1ヶ月のうち25日間は演奏旅行に行くという忙しさでした。合奏場の壁にはいっぱいの感謝状がところ狭しと並んでいました。どこへ行っても緒方隊長は歓迎されていたのです。
 音楽隊といっても、時には一般隊員の訓練と同じ缶詰の食事をしなくてはならない時があります。そのような時に招待先の方々は、緒方隊長だけを別室に呼んで御馳走をしたいと言うのですが、緒方隊長は「ありがとうございます。しかし私は隊の方針で隊員と共に缶詰を食べることにしています」と接待を断っていました。音楽隊員の皆はそのことを知っていたので、緒方隊長に更に厚い信頼を寄せていました。
 私は隊長付きを命ぜられていましたが、緒方隊長は大変忙しい方なのでそばに付いているだけでもものすごく大変でした。緒方隊長は行動が早く、更には色々な場所での打ち合わせもあります。食事の際には隊長分の食事を用意して、すぐに食べられるようにしなくてはなりません。更に出張演奏時は目が廻るほどの忙しさでした。目立つことなくそれでいて隊長の先回りをして用意しなくてはならない時もあり、隊員の友達同士で話し合う時間もないくらいでした。  そして楽譜係の役も命ぜられていたので指揮譜は私が全部持つことになります。それに加えプログラムを作成するのも私の仕事です。その地域の演奏場所によって少しずつプログラムを変更しなくてはなりません。プログラムと言ってもほとんど変わりばえのしない曲ばかりです。ほとんどがクラシックで、それも地方での演奏会ということもあり、大曲をプログラムに入れることはできません。そもそも大曲は音楽隊員の演奏レベルではついていくことはできません。そこで比較的短い曲、交響詩フィンランディアや、軽騎兵、ウィリアム・テル、ヨハン・シュトラウスのワルツなどを演奏していました。1番喜ばれるのは、日本民族メドレーでした。あとはスーザのマーチ集などです。楽譜係といっても曲目が少ないので変化を求めるのは大変に難しいことでした。  演奏旅行で地方に行く時は、幌付きのトラック3台で移動をしていました。緒方隊長は基本的には“隊員と共に”がモットーであったので、指揮者としての車は使わずにトラックの助手席が定位置でした。現在は大型バスで快適に移動ができ、また道も舗装されているので身体にひびくことはありませんが、50数年前の当時は道があまり舗装されておらず砂利道ばかりでした。トラックの1番後ろは砂埃がもうもうと舞い上がり、息をするのも大変なので私はずっとタオルで口をふさいでいました。他の音楽隊の隊長はトラックの助手席には乗らずに、別の小型の車を専用車として使っていました。しかし緒方隊長はそれを断って隊員と共にトラックで移動をしていたのです。こんな姿を音楽隊全員が知っているので、緒方隊長に対する信頼はゆるぎないものでした。トラックの乗り順も決まっていて、古参隊員はトラックの前の部分に座ります。座席に座る位置も決まっています。私のように階級が1番下であり、隊員歴の短い者ほどトラックの1番後ろの方に席を取るようになっていました。時代が違うといえばそれまでですが、あまりにも当時と現代の差は大きいです。それに緒方隊長は隊員の体調に気を使って下さり、体調が悪いと聞くとすぐに駐屯地の中にある医務室に行くようにすすめて下さっていました。
 そして緒方隊長の1番の特徴はできるだけ地方で演奏会をし、地方の方々に喜んでいただきたいという姿勢です。普通の隊長ならば出張演奏会などすすんではせずに、なるべく隊内にいるようにするのですが、緒方隊長は正反対で「人々に喜んでもらうことこそが音楽隊の使命である」と日頃から話していました。そのことについて、私は痛いほど解ります。
 旭川市の商工会議所前での演奏がなかったならば、緒方隊長と出会うこともなく吹奏楽に対してもこんなに惚れ込むことはありませんでした。緒方隊長は私のような子供たちにも感動を与えようと心底から思っていて、その結果地方演奏をひっきりなしにやっているように思いました。これは緒方隊長の吹奏楽への愛情とかいうものではなく、吹奏楽を世に広めようと必死になっているように感じるのです。その気持ちが実際に演奏を聴いた人たちが感謝状を送ってきてくれることにつながるのだと思います。そのために感謝状が合奏場にところ狭しといっぱいになっていたのです。私は不思議に思ってたまたま他の音楽隊の人と話し合う機会があった時に「出張演奏会は1カ月にどのくらいあるものか?」と聞いたことがあります。「私の音楽隊では1カ月に2~3回あればそれは大変なことだ」と言う返事を聞いて、われわれの第1管区音楽隊は普通ではないことを知りました。きっと子供達が聞けば将来吹奏楽のファンになる子も増えると思いました。緒方隊長の偉大さは、使命感を持ち生命をかけていることが行動のひとつひとつににじんでいるということに気が付いたのです。


 



助安由吉の作品集
音源ダウンロード
演歌 お父さんありがとう(歌:瞳 勝也)
お母さんありがとう(歌:若林 千恵子)
(1966年・31才の時)
歌謡曲 わが道(歌:助安 哲弥)
生まれた理由(歌:助安 哲弥)
(1994年・59才の時)
吹奏楽 愛のはばたき
ミドナイト イン トウキョウ
真珠採りの歌
駅馬車
(演奏:海上自衛隊東京音楽隊)
(1960年・25才の時)
環境詩 緑したたる地球を守ろう(ナレーション)
緑したたる地球を守ろう(英語版のナレーション)
(1971年・36才の時)

吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉

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