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アルフレッド・リードの生涯 その1

Alfred Reed 100th Anniversary

2021年はアルフレッド・リード生誕100年、初来日から40年目になります。アルフレッド・リードの生涯を振り返ってみます。

《少年時代》
アルフレッド・リードは1921年1月25日、ニューヨークのマンハッタンのほぼ中央、東33丁目で生まれました。両親はウィーン出身のオーストリア人で、第一次世界大戦を逃れて、アメリカに移住しました。
父のカール・フリードマン(1885〜1956)はレストランを経営し、母エリザベス・リード(1889〜1937)は歌が上手で、店のレストランで歌うこともあったそうです。
父も音楽が好きで蓄音機とクラシックのレコードをたくさん持っていて、リードは小さい時からそれを聴いていて、小学校に入学する頃には、レコードの全部の旋律を覚えて歌うことができました。小学生の時、学校に楽器店のセールスマンが来て管楽器を宣伝していて、コルネットが気に入った3年生だったリードは、早速両親にトランペットを買ってもらいました。1932年、私立のハーマン・リダー中学校に入学。中学校には小編成のオーケストラがあり、そこでトランペットを吹きました。


《高校生時代》
1934年に高校生になった頃には、バンドでアルバイトが出来るほど上達し、夏休みにはニューヨークから150キロも離れた山の保養地のホテルのバンドで演奏していました。このホテルに急にアイルランドの政治家が宿泊することとなり、歓迎のための楽譜が無かったため、リードが急いで編曲することとなり、その時から作曲や編曲に興味を持つようになりました。リード15歳。
作曲に興味を持ったリードは、1936年ジョン・P・サッコーに師事しピアノと音楽理論、和声学、対位法の勉強を始め、また専門のトランペットも先生に師事して学びました。1937年からはハンガリー出身のピアニスト、ポール・ヤーティンに師事し、厳しい指導を受け、吹奏楽が嫌いだったヤーティンはリードにオーケストラを聴くように勧めたそうです。この頃からリードは仕事上の名として本名のフリードマンでなくリードという短縮した名前を使うようになり、その後1955年になって正式にリードと改姓しています。

《ラジオ放送ワークショップ時代(1938〜1942)》
1938年に高校を卒業したリードはレッスンを続けていましたが、1937年春には母親を亡くしています。
当時ニューヨークには、音楽家を養成しラジオ放送の技術を教えるナショナル・ユース・ラジオ・アドミンストレーション・ワークショップ(全国青少年放送研修組織)というプログラムがあり、リードは1938年からこのワークショップに参加し、既に音楽知識と技能を十分持っていた彼は、すぐ音楽放送番組制作部門に配属されました。リードはここで、当時の有名な指揮者や作曲家のアシスタントとして音楽番組の制作を担当し、オーケストラの副指揮者も務め、貴重な経験を積みます。リードはすでにこの頃からラジオ番組のためのテーマ音楽として「都市物語」、「アメリカの約束」、「クリエイティブ・アメリカ」などを作曲しています。また番組を通じてジュリアード音楽学校の作曲教授ビットリオ・ジャンニーニとも知り合うことができました。
1940年、市内に新たに開店したレストランに父が勤務することとなり、リードはその店の娘マジョリー・ベス・デイリーのピアノ教師になり、そこに愛が芽生え2人は1941年6月20日に結婚します。リード20歳。


《米国陸軍航空隊軍楽隊時代(1942〜1946)》
1941年、アメリカも第二次世界界大戦に参戦し、1942年9月、リードは召集を受けてコロラド州デンヴァーの第529陸軍航空隊軍楽隊に配属されました。彼はここで、副指揮者を務める傍ら、放送の経験を生かしてラジオ番組の制作、解説者として活躍し、同時にいままでは馴染みの薄かった吹奏楽に深く携わるようになります。その結果1944年に彼の最初の吹奏楽曲「ロシアのクリスマス音楽」(出版は1968年)が作曲されました。また負傷した兵士の慰問音楽番組や、外地の兵隊に送る音楽番組なども制作しました。

《ジュリアード時代(1946〜1948)》
1946年春陸軍航空隊を除隊したリードはニューヨークに戻り、ジャンニーニが作曲の教授だったジュリアード音楽院に入学しました。ここで2年間作曲を学んだリードはNBC放送局から誘いを受けました。ジュリアードの学位が欲しかったわけでなく、ジャンニーニに師事し作曲を学ぶことが目的だった彼は、ジュリアードを中退して、NBC放送に勤務することとなりました。


《放送局時代(1948〜1953)》
リードはNBC放送とCBS放送に3年間、ABC放送に2年間、合計5年間放送局で音楽番組の制作、録音、作曲、編曲と多方面にわたって働き、映画音楽やミュージカルを含むあらゆる分野の音楽に深い経験を積みました。その結果彼は作曲家として自立する道を選ぶことにしました。

《ベイラー大学時代(1953〜1955)》
放送局を退職した彼は、ニューヨークにあるチャールズ・ハンセン出版社(Charles Hansen)の専属作曲家になります。彼の才能を認めた会社では、リードがジュリアードを中途退学して、学位を取らなかったことを惜しんで、テキサス州ウエイコーのベイラー大学に派遣してくれました。そこでリードは大学オーケストラの副指揮者をしながら、音楽学部で理論も教え、かつ自分自身も勉強して、3年間で学士号を取得し、同時に吹奏楽の在り方についても研究を深め、「The Balanced Clarinet Choir」(バランスの取れたクラリネット・クワイア)という本も出版しています。


《ハンセン出版社時代(1955〜1966)》
1955年、ベイラー大学からニューヨークに戻りハンセン出版社での仕事に専念することになりました。ニューヨークで作曲をした「ヴィオラと管弦楽のための狂詩曲」をベイラー大学に論文として提出し1956年に修士号を取得し、この曲は米国作曲家の最優秀作品にも選ばれ、後にブージー・アンド・ホークス社(Boosey & Hawkes)から出版されました。リードは1957年にハンセン出版社の編集主任に昇格しました。この頃、子供に恵まれなかった彼は2人の男の子を養子に迎えています。
またこの頃、つまり30代後半からリードは吹奏楽曲の作・編曲を多数出版するようになりました。
1960年ハンセン出版社はフロリダ州に移転し、リードもフロリダに移住しました。

◆この時期に出版された代表曲(出版年)
スラヴ民謡組曲 1953
バラード(アルトサックスとバンド) 1956
グリーンスリーヴズ(編曲) 1961
音楽祭のプレリュード 1963
シンフォニック・プレリュード 1963
思い出のサンフランシスコ(編曲) 1963
ハーレム・ノクタ−ン(編曲)  1963
枯葉(編曲) 1963


《マイアミ時代(1966〜1993)》
1966年にリードはハンセン出版社を退職し、フロリダ州コーラルゲイブルズにあるマイアミ大学の準教授として迎えられました。リードはこの大学で長年の放送や出版社での経験を生かして、新たに設けられた「音楽産業学」の講座を担当しました。この科目は音楽産業に関連するすべてを学ぶ画期的な新しい学科でした。
リードは大学で教える傍ら、マイアミ大学音楽部長だったウイリアム・リー博士が編成したオール・アメリカン・ユース・オナー・バンドの副指揮者として南米に3年連続して演奏旅行に出かけ、その功績により、ペルーの首都リマのペルー国立音楽院から1967年に博士号を授与されました。
1968年にはマイアミ大学音楽学部の教授に昇任し、作曲家としても1970年代から90年代にかけて円熟期を迎え、「アルメニアン・ダンス」などの名曲を次々に生み出していきました。1975年、54歳の時に「ABA(米国吹奏楽指導者協会)」会員となりました。
1980年8月からは退任したフレデリック・フェネルの後を継いでマイアミ大学ウインド・アンサンブルの指揮者に就任し、作曲に指揮に大活躍しました。
1980〜87年は音楽産業学科の教授とウインド・アンサンブルの指揮を兼ねていましたが、1987年からは音楽産業学科(Department of Music Media and Industry)の学科長に就任しました。
指揮活動は1993年4月26日に彼が72歳でマイアミ大学を定年で退職するまで13年あまりも続けられました。

(続く)




秋山紀夫【あきやま・としお】 秋山紀夫
 前ソニー吹奏楽団常任指揮者。現おおみや市民吹奏楽団音楽ディレクター。(社)日本吹奏楽指導者協会名誉会長、(社)全日本吹奏楽連盟名誉会員、アジア・パシフィック吹奏楽指導者協会名誉会長、WASBE(世界吹奏楽会議)名誉会員、浜松市音楽文化名誉顧問、アメリカン・バンド・マスターズ・アソシエーション名誉会員。ソニー吹奏楽団名誉指揮者。

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