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Music People Vol.78 藤島裕明

多くの先生に育まれて

 人との出会いが音楽性を育んでいく。私は多くの先生に育まれて、そして今、音楽と共に生活が出来ている。生徒とは「音楽に率先して自ら関わってゆくものだ」という考えで指導に関わっている。
 小さい頃、私は車で10分も行けばオホーツク海がある田舎町に住むスポーツマンの子供であった。その私に音楽を与えてくださったのは、小学校5・6年生の時に担任であった横畠先生である。ある時、ふと気がつくと放課後の音楽室からクラッシックが聞こえてきた。音楽室を開けると、先生が『ウィーンはいつもウィーン』を聴いていた。先生は国立音楽大学に進学したかったようだが、インフルエンザで受験できず悔しい思いをしたようである(専攻はパーカッションが希望だった)。「音楽はいいぞ」と私にいつも語りかけてくれた。鼓笛隊では『雷神』『海を越える握手』、学芸会は『ハンガリー舞曲第5番』をリコーダー、鍵盤ハーモニカ、アコーディオン、鍵盤楽器、それと大太鼓、小太鼓で演奏した。この小学校には今までにはない曲のレパートリーで町中が驚いていた。私は小太鼓を担当し、ロールができるようになったことが非常に嬉しかった。先生の住む教員住宅にはグランドピアノやバイオリンなど多くの楽器があり、先生はグランドピアノの下で寝ていた。このようなエピソードを今でも覚えているくらい印象的な先生で、いろいろな楽器を有効に活用して奇想天外な音楽ができるという事を教えてくださり、今でもかなりの影響を受け続けている。


中学時代、父親の転勤により旭川に引っ越すことになった。当時、旭川は吹奏楽人口が多く、中学生で楽器を持っている学生が多く、私は人気のないテューバを担当することになった(本当はトランペットが良かった)。顧問の先生は河本先生で、1年生のときは大編成であったが、ドーナツ化現象もあり、街中の中学校は人数の減少に伴い2年生からは小編成になった。編成が変わるという過渡期に河本先生は奮闘していたが、小編成では物足りず退部をする生徒が多かった。そんな中、根気よく一喜一憂せず、教則本はファースト・ディヴィジョンを使った基礎練習、パート練習、個人練習、そして合奏というメニューを毎日積み重ねていけるように私に指導をしてくれた。初心者も拒まず、音楽はいつでもどこでも誰でもが出来ることを、身をもって教えてくださった。3年生のときには全道大会に進出することができ、音楽は団体競技であることを実感した。その時に演奏したアルフレッド・リード作曲『小組曲』は私の宝物となった曲である。部活動の中での自分の役割、演奏する中での役割、パートの役割を諦めずに根気よく教えてくれる先生であった。


楽器を持っていなかった私は、旭川龍谷高校ではホルン、トロンボーン、トランペットを担当した。顧問の先生は岩城宏之先生(有名な指揮者と同姓同名であった。)で、部活動は自主的に生徒が中心に行われていた。当時は旭川市立永山中学校、永山南中学校、旭川近郊の当麻中学校が全国大会に出場しており、旭川は「吹奏楽の街」と言われるほど吹奏楽が盛んであった。そんな中、先輩や同級生には全国大会経験者が多数いた。その頃の旭川龍谷の野球部は、甲子園出場を果たすほど強豪校で(現在は30年以上甲子園出場から遠ざかっている)、野球応援も盛んに行っていた。生徒が曲を耳コピして譜面に起こしたり、チャンステーマを作曲したり、自ら積極的に音楽活動に参加できる雰囲気があった。オリジナルやアレンジの楽曲やポップスなど様々なジャンルの楽曲を自分たちの力でパートを入れ替えたり、音を足したり、自分たちのバンドができる最高の演奏を求めることができた。その環境を許してくれた岩城先生の度量の大きさは本当に尊敬に値している。そして、現在は私が、母校の旭川龍谷高校で吹奏楽顧問をさせて頂いている。「生徒自らが率先して音楽に関わっていく」という考え方のほとんどは、高校時代に養われていたと思う。


高校を卒業し、龍谷大学吹奏楽部に入部し驚いた。関西では有名なバンドであることを知らずに入部してしまった。洛南高校、淀川工業高校、天理高校からセレクションで多くの人材が集まっており、部員数も100人を超えていた。私にとってそのようなバンドは初めてである。ちょうど私が二回生の時から全国大会出場が始まった。指揮者は若林先生(当時京都交響楽団トランペット奏者)、現在も音楽監督を務めておられる。音楽に対する冷静な態度と関西特有のコテコテな曲のエンディングや演奏会のフィナーレなど、今まで経験したことのない多くのことが体に染み込んでくる大学時代の部活動であり、吹奏楽のエンターテイナー性を学んだ。下手な私の居場所を作ってくれたのは、先輩や同学年のお蔭であると感謝している。
トランペットのレッスンを受けるのも初めての経験で、早坂先生(元京都交響楽団トランペット奏者)がレッスンをしてくださる機会があった。早坂先生も北海道の出身で、よく面倒を見てくださった。練習で一番つらかったのは、アップライトピアノの上にトランペットを置き、木にしがみ付く蝉のような姿で、あまりプレスしすぎないように吹くという練習であった。いまだにアップライトピアノを見るとその時の辛さを思い出す。

早坂先生、退職記念レセプションは楽しい時間でした。ありがとうございました。
若林先生、まだまだ先生の音楽性は龍谷大学の学生に必要です。ずーーーっと龍谷大学吹奏楽部の指揮者でいてください。コロナ禍で演奏会になかなか行けませんが、ぜひ先生の音楽を学びに定期演奏会を聴きに伺います。まだまだ引退しないでください。先生の音楽を全国の学生が待っています。吹奏楽における先生の役割はまだまだあると思います。

現在、吹奏楽部の顧問となって28年目を迎えようとしているが、人のぬくもりが音楽のぬくもりとなっているように感じる。音楽は孤独になりがちな私たちを「決して一人ではない」ということを気づかせてくれる一つのエレメントになると考えている。これからも、吹奏楽という身近な音楽が、子供たちに与えていくものは多く存在すると確信している。携わる者として誠心誠意音楽と向き合っていかなければならない。「音楽はいいぞ」と常に言い続けられる身であり続けたい。

藤島裕明【ふじしま・ひろあき】

旭川龍谷高等学校顧問

 

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