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30.南国土佐を後にして

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



30.南国土佐を後にして

 楽譜係を命ぜられてから判ったことは、私たちの音楽隊はたくさんのレパートリーがある訳ではありません。限られた中で各地の演奏会に行くのでなんとかレパートリーを増やしたいと思い、緒方隊長に相談して当時日本一上手な吹奏楽団と言われていた中央音楽隊に行き楽譜を借りに行きました。中央音楽隊は全国の吹奏楽団の中から選りすぐった人たちで編成しているので、大変レベルが高いのです。更に中央音楽隊に在籍しながら各音楽大学に通って実力を身につけます。ですから他の音楽隊とは比べものにはなりません。
 中央音楽隊に行き難しい曲は最初から無理ですので、第一管区音楽隊でできる範囲の曲を毎回10曲ほど選んでもらい、その曲を隊に帰って試奏するのですが、大体10曲のうち2曲か3曲しかできないのです。各楽器のセクションの実力がその楽譜についていけないので、レパートリーにはのせられません。どんな良い曲だと思ってもその曲にソロがあり、そのソロを担当する人に力がなければ選ぶことができないのです。
 そんなことを何回も繰り返しているうちに、私の心の中に突飛な思いが浮かんできたのです。それは吹奏楽の中に歌謡曲を取り入れることです。
 普通なら絶対に入れることなど不可能だと思うのですが、緒方隊長なら取り入れてくれるかもしれないと淡い期待を持って実行に移すことにしました。
 校歌の編曲は生徒が歌うことが主な目的なので演奏そのものに新しいものを付け加えることができません。しかし演奏レパートリーに入れるとなると、演奏そのものに大変ウエイトがかかります。そこで当時流行した曲の中からレコードが100万枚も売れたと言われる曲、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」を選んでみました。
 早速楽器店に行って楽譜を買いました。そしてこの曲を吹奏楽団に合わせるにはどうしたら良いかを何日も考えに考え抜きました。このことは誰にも相談することはできません。私自身が楽譜係を担当して毎日プログラムを作り、その時にいつも空しくなっていたので、いつも心の中で聴く人が皆んな喜んでくれるものはないかと探していたのです。しかしクラシックの中の曲は出張演奏会に向かないとずーっと思っていました。歌謡曲を吹奏楽団に入れることは大反対されるに決まっている。しかし皆んなが喜びバンドの人も喜ぶ曲は何かということを前々からずーっと考えていたのです。
 「南国土佐を後にして」の楽譜は歌譜になっていてペラペラの1枚ものです。私はそのペラペラの楽譜とにらめっこをしばらくやっていました。なんとかやれそうな気がしたのです。しかし編曲が上がっても演奏会に使ってくれるかどうか全くわかりません。その前に緒方隊長に聞くわけにもいかず、もんもんと心に暖めてきました。そんな中でも出張演奏があります。その時も私はプログラムを作ります。そして私たちの演奏を聴く人たちの反応は芳しくないのです。これは今に始まったのではなく、私が音楽隊に入ったときから全く変わらないのです。
 そんなことを何回か繰り返して私は遂に決断したのです。決断をするとすぐに編曲にとりかかり、7日程でパートまでできたのです。しかし緒方隊長には中々言い出せないでいると合奏場でクラシックの新曲の練習があったのです。その曲の練習が終わった時に「南国土佐を後にして」の指揮譜とパート譜を緒方隊長に渡し、「私が編曲した『南国土佐を後にして』ができましたので試奏してもらえませんか?」と当たって砕けろとの気持ちで渡しました。当時はこの歌を知らない人などいないほど有名な曲です。もし駄目だったら仕方がない、その時は諦めようと思っていました。緒方隊長はしばらく指揮譜をみて「助安がせっかく書いたんだからやってみようか」と言うことになり、各パート譜を全員に渡し試奏したのです。フルートのソロから始まる曲が初めて吹奏楽の曲となって音出しが始まったのです。私の心はビクビクです。しかし結果は上々。隊員の皆さんも喜んでくれ、緒方隊長も「今度の演奏会に使おう」と言ってくれたのです。私は皆が喜んでくれる曲をなんとか見つけたいと思っていので、ようやくそれが実現するのです。
 歌は上手な人が2人います。中村士長と山口三曹です。最初の演奏のときは中村士長が歌うことになりました。そして今度の出張演奏の時に使うことになりました。
 もしこの時緒方隊長の許可が得られなかったならば、ミュージックエイトの存在はなかったことは確実です。それほど吹奏楽の中に歌謡曲を入れるとこは普通ならばありえないとこなのです。この突破口を作ったのは緒方隊長の決断だったのです。そして待ちに待った出張演奏の時が来ました。
 プログラム通りの一通りの演奏が終わりアンコール曲として「南国土佐を後にして」を演奏が始まったのです。フルートのソロが始まった時から聞いている人々の態度が急に変わったのです。その場が明るくなりみんな元気になり喜びを身体中に現しているのです。そして演奏が終わった時に聞く人々も演奏した隊員たちも喜びの渦に巻き込まれたのです。聞いた人たちは大喝采です。そこには感動感動みんなが立ち上がっての喜びを現したのです。今まで演奏会をやってこんな奇跡的なことはありませんでした。聞いた人は拍手と同時に抱き合う人もいて、もうそこら中で喜びの渦が幾重にも重なったような状況だったのです。遂に私の希望が緒方隊長の決断によって吹奏楽の中に歌謡曲が入った瞬間でもあったのです。
 それから後の出張演奏の時には必ずアンコール曲として一回も欠かしたことのがありませんでした。この噂はどんどん広がっていき中央音楽隊を初め他の自衛隊の音楽隊に貸し出されることになったのです。
 昭和34年の頃のことです。今から61年も前のことになります。この1曲が私の運命を変えることになったのです。自衛隊退職後、NHKサービスセンターの職員を経て服部良一、克久先生親子の写譜をしていた時に、吹奏楽の楽譜の出版社を作りたいと話した時、良一先生と克久先生の許可を得て(株)ミュージックエイトの創立をしたのです。この2人の許可がもし無かったならばやはり(株)ミュージックエイトの存在が無かったこともこれまた確実です。吹奏楽に歌謡曲を入れて演奏してくれたのは緒方隊長であり、それを全国的に伸ばし育てくれたのはまさしく服部良一先生と克久先生です。私はクラシックだけでは人は感動しないことを体験を通して知ることになり、そのキッカケを作ったにすぎません。


 



助安由吉の作品集
音源ダウンロード
演歌 お父さんありがとう(歌:瞳 勝也)
お母さんありがとう(歌:若林 千恵子)
(1966年・31才の時)
歌謡曲 わが道(歌:助安 哲弥)
生まれた理由(歌:助安 哲弥)
(1994年・59才の時)
吹奏楽 愛のはばたき
ミドナイト イン トウキョウ
真珠採りの歌
駅馬車
(演奏:海上自衛隊東京音楽隊)
(1960年・25才の時)
環境詩 緑したたる地球を守ろう(ナレーション)
緑したたる地球を守ろう(英語版のナレーション)
(1971年・36才の時)

吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉

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