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22.奇跡的な吹奏楽団との出会い

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



22.奇跡的な吹奏楽団との出会い

 中学校を卒業した後、家が貧乏なためと農家の長男であったがために高校には行く必要が無いと父に言われ、悶々としていました。その時どういう訳だかわかりませんが急に自転車で旭川市に行ってみようと思ったのでした。何の目的もなくただ旭川市に行こうと思ったのです。当時は国道といっても砂利道のデコボコ道です。自転車はそのデコボコ道の上を走るので、直接身体に振動が伝わってきて激しく疲れます。ですがその後東京に出てから舗装された道を自転車で走ったことと比較してみると、舗装された道を走る方がより早く疲れてしまいます。舗装されていないデコボコ道は大地そのものであり、大地のエネルギーが全てに行き渡っています。それに引き替え都会の舗装はエネルギーが全く無いだけではなく、人間や道の上を通る全てのエネルギーを逆に吸い取るようになっているのです。その当時はそのような事は判っていませんでしたので、砂利道ではない方が良いと思っていました。
 旭川市まで比布村からは8キロから10キロくらいあると思います。旭川市に着いた頃にはお尻も痛くなり、よじれる程になっていました。比布から鷹栖・永山を通って旭川に入り、春光町を通ったその先に石狩川が流れています。その川に大きなアーチ型の橋が架かっています。それが旭橋です。その橋を渡り切った右側に旭川市の商工会議所があります。私は何の目的もなくただ旭川市に行きたいという思いだけで行動を取ったので、その付近をブラブラしていました。そして旭橋を渡ったあと市の中心街に向かおうとしていたその時に、私の耳は音楽をとらえました。それが保安隊、のちの自衛隊の音楽隊が演奏している音楽だったのです。私は早速自転車を降りて人だかりの中に入っていきました。そこにはキラキラした管楽器があって音が奏でられていました。私は中学を卒業したばかりの16才です。比布生まれの比布育ちで文化という文化とは全く縁遠い田舎のあんちゃんです。そして高校にも行けなくてしょぼくれて夢も希望も持てないような気分になっている、哀れという以外にないド田舎の少年です。しかし音楽だけは大好きで、特に歌謡曲はとても心を癒してくれる唯一の音楽でした。そのド田舎少年がその演奏を聴き度肝を抜かれたのでした。「歌謡曲以外にこんなに心を惹き付ける音楽があるんだ」と感動を持って聴いたのでした。
 その後にこの時何故急に旭川に行かなければならないと思ったのかが判りました。私はこの吹奏楽の音を聴くためにわざわざ自転車に乗って旭川に来たのだということです。もし比布駅から旭川駅まで電車で来ていたならば旭橋を渡ることはありません。したがって吹奏楽を聴くことはなかったでしょう。それと時間帯です。もし比布村を少し早く出ても遅く出ても、吹奏楽の演奏時間に出くわしたかどうかです。私が吹奏楽の演奏時間に合わせて比布村を出たということに間違いがありません。
 初めて見聴きした保安隊(のちの自衛隊)の吹奏楽団の演奏は私に強力なインパクトを与えてくれ、たった1回聴いただけで吹奏楽のとりこになってしまいました。小学5年生の時は東京に出て歌謡曲の作曲家になるんだという夢を持っていましたが、この吹奏楽を聴いてからは夢がもう1つ増えたのでした。どんな吹奏楽団でもいいので吹奏楽団で管楽器を吹きたいという強烈な夢が心の中に入り込んできました。この夢は歌謡曲の作曲家より具体的です。それはトランペットやトロンボーンやクラリネットや大きなラッパなどは目で見て確かめることができるのでイメージがつき易いからです。
 もしこの16才の時、吹奏楽団に出会うことがなかったなら、私の人生の中に吹奏楽の「吹」の字も無かったと思います。ということはのちのち吹奏楽の楽譜の出版社、株式会社ミュージックエイトの創立も無かったことは間違いがありません。人生とは不思議なものだといいますか、何かに導かれて一歩一歩を進めているとしか言いようがありません。この吹奏楽団に出会ったことによって私ははっきりとした目標の種を心の中に播いたのです。何か困ったことがあるとトランペットやトロンボーンを思い出してはその困ったことを乗り越え、辛いことがあったときもトランペットやトロンボーンを思い出して力を得るようになっていきました。東京に出て15回もの転職をして、塗炭の苦しみの連続の中で唯一心が安らげるものは吹奏楽でした。初めて聴いた吹奏楽は、力強く輝かしくそして勇ましく天にも昇るようなサウンド、これ以上のものはこの世には無いように思い、その音に浸るようになっていきました。音は実際にはもう消えて無いにもかかわらず、私の心の中ではいつまでもそのサウンドが響き渡っていました。曲名は何ひとつ思い出せませんがクラシック音楽だったと思います。けれども初めて聴いた吹奏楽だったのでずっとずっと耳に残っているのです。
 旭橋の近くで吹奏楽を聴いたあと、街の中心街にある楽器店に寄ってからすぐに比布村の自宅に帰りました。その後はずっと興奮状態が続いて寝ることもできない程でした。私の16年間の人生の中でこれ程までの興奮は味わったことがありません。毎日見る夢は吹奏楽のサウンドと管楽器です。忘れようとすればする程強力に甦ってくるのです。現実には農家の長男は農業を継いでいかなくてはなりません。ほとんどの農家の長男は農業を継いでいます。私だけ農業を継がないというわけにはいかないとは思うけれども、きっと奇跡が起きるかも知れない。そのためには毎日毎日夢や希望を持ち続けて、強力に自分自身を奮い立たせていく以外にないのだと強く強く思い始めました。それからの私はこれまでと全く違った生き方に変わっていきました。農作業をしながらそこには吹奏楽団に入って演奏をしている自分がいたのです。


 






助安由吉の作品集
音源ダウンロード
演歌 お父さんありがとう(歌:瞳 勝也)
お母さんありがとう(歌:若林 千恵子)
(1966年・31才の時)
歌謡曲 わが道(歌:助安 哲弥)
生まれた理由(歌:助安 哲弥)
(1994年・59才の時)
吹奏楽 愛のはばたき
ミドナイト イン トウキョウ
真珠採りの歌
駅馬車
(演奏:海上自衛隊東京音楽隊)
(1960年・25才の時)
環境詩 緑したたる地球を守ろう(ナレーション)
緑したたる地球を守ろう(英語版のナレーション)
(1971年・36才の時)

吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉

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