現在取扱い楽譜数:ロケット出版2,623件
国内楽譜190,142件、 輸入楽譜55,061件

Music People Vol.84 助安由吉

吹奏楽に初めてポップスを入れた苦労人、逝去


吹奏楽に初めてポップスを入れた苦労人、逝去


助安由吉(ミュージックエイト創業者、ロケットミュージック顧問)


私の父、助安由吉が2023年10月31日に息を引き取りました。88才でした。生前に親しくして頂きましたこと、故人に代わりまして厚く御礼申し上げます。ここに父の生い立ちなどを書かさせていただければと思います。

今では普通に吹奏楽でポップスの演奏ができますが、昔は全然違いました。当時は「学校教育に不良のポップスを入れることはけしからん!」という時代でした。学校では「クラシックと民謡」オンリーという時代でした。

父、助安由吉が1965年に創業をした「ミュージックエイト」が初めて学校にポップスを入れていき、今の時代となっています。

その父は北海道の貧しい農家で育ちました。16才の時に、たまたま自衛隊音楽隊の吹奏楽の演奏を野外で聴き、それが衝撃で、自分もいつか東京に行き、作曲家、そして吹奏楽団の一員になりたいとその時に決めたそうです。そして19才の時に東京に行くために家出をします。

父は19才で上京しますが、それからが苦難の連続です。仕事も転々と16回も変えています。新聞配達、ホテルの風呂炊き、ラーメン屋、氷屋、旅館の板前の助手、電気工事の助手、流し・・等々。16回目が「自衛隊音楽隊」でした。これが父の人生を大きく羽ばたかせていきます。父が21才の時です。

詳しくは父のコラムがロケットミュージックHPに掲載されていますので以下からご参照ください:
https://www.gakufu.co.jp/blogs/suisougaku-wo-aishite


「自衛隊音楽隊」で出会った隊長の緒方さん、この方との出会いが素晴らしいものでした。緒方さんはかなり前に亡くなられていますが、自衛隊時代は本当にすごい人でした。音楽を愛し、人間的にも素晴らしい人で、皆から尊敬される指揮者でした。

当時、他の音楽隊はせいぜい1カ月に2〜3回の出張演奏だったそうです。しかし父の属する音楽隊隊長の緒方さんは「できるだけ地方で演奏会をし、地方の方々に喜んでいただきたい」という姿勢で1ヶ月の内25日間は演奏旅行というスケジュールだったそうです。吹奏楽を世に広めようと必死になって頑張られた人です。

父はその音楽隊の楽譜係でした。コンサートプログラムも、またライブラリーにある楽譜もクラシックと民謡だけです。なんとかレパートリーを増やしたいと考えた時に思いついたのが今のJ-POPにあたる「歌謡曲」。当時、ポップスは自衛隊の演奏会でもまた教育界でも絶対的NGです。しかし父は緒方隊長であればOKしてもらえるのではないかと思い、当時100万枚も売れたペギー葉山の「南国土佐を後にして」を吹奏楽に編曲し緒方隊長におそるおそる提出すると、「助安がせっかく書いたんだからやってみようか」と言うことになりアンコールナンバーに採用してくれました。それが爆発的な人気だったそうです。

しかし当時、ポップスはご法度の時代。そんな中でも緒方隊長は父編曲の「南国土佐を後にして」を毎回の出張演奏で演奏をし皆を喜ばせていき、父の属した音楽隊の評判はうなぎ登りになっていきます・・・しかし上層部はそれをよく思っておらず、結局緒方隊長は東京練馬から北海道の僻地に左遷ということになってしまいます。そんな時代です。

そして父も緒方隊長無き音楽隊に見切りをつけ退職し、父は服部良一先生の弟子入りをし、服部家の写譜を受け持つことになります。服部良一先生は「昭和のポップスの源」と言われた人で、日本のポップスを作っていった人です。現在NHKで放映中の朝ドラ『ブギウギ』は歌手、笠置シヅ子さんと作曲家、服部良一先生の物語です。

その後父はポップス系吹奏楽譜の出版社を作ろうと思いつき、服部良一先生、克久先生のご協力の元、昭和40年に「ミュージックエイト」を創業します。ポップスの源、服部良一先生、克久先生が会社の役員でいれば教育界にもポップスを入れられそうな気がしますが、しかしそこからもまだまだ問題が山積でした。緒方隊長が演奏会のアンコールで「南国土佐を後にして」を演奏しただけで左遷の時代です。

私助安博之は、ミュージックエイト創業から20年経った1985年にアメリカ、テキサス州のSouthern Music Companyに日本人初の社員として8年間在籍し、28才の時に帰国、父からのバトンタッチでミュージックエイトの代表取締役に就任しました。父が30年の基礎を築いた後です。私は父の後18年間代表を務めました(最後2年は会長として)。私は長男で、弟が3人いますが、4兄弟全員ミュージックエイトに入りました。しかしある時、️お互いの些細な誤解が発端で、父と次男によって、私、三男、四男が解雇されることになってしまいました。その後に作ったのが「ロケットミュージック」です。服部克久先生の息子、服部隆之君(今放映中のNHK朝ドラ『ブギウギ』の音楽担当も)、作編曲家の真島俊夫さんのご協力を得て作った会社で、新しい風を吹かせる吹奏楽出版社を目指し、創業から現在まで11年経ちます。

父と次男でミュージックエイトをやることになりましたが、父が持っていたミュージックエイトの株をすべて次男に譲渡しました。その後、父は次男から解雇宣言を受け、ミュージックエイトから追い出されてしまいます。

父がどれほど吹奏楽を愛しているかは、世界中の誰にも負けないと思っていますので、解雇を知った後はロケットミュージックの顧問として即座に受け入れました。

今現在、吹奏楽で当たり前のようにポップスが演奏されるようになりましたが、そこに行くまではそれはそれは大変で、今ここには書ききれません。短く言うと、そこに「吹奏楽をこよなく愛し、自分が受けた感動を子供たちにも伝えたい」という一人の男がいたからかもしれません。ポップスを通して吹奏楽界に新風を吹き込み、子供たちに情操教育を普及させて人間教育の原点に立ち返らせる方法を確立したいと思った男の「命がけの執念」だったと思います。

父はミュージックエイトを実の息子から解雇されても、いつでもミュージックエイトのことを想っている人でした。創業者であり、自分の夢を乗せていった会社ですから・・・父の携帯の番号は「080-x88x-0888」、生まれは8月、そして亡くなった年は「88才」、ミュージックエイトは父にとってまさしく「自分」だったかもしれません。

父なき今、私たち「ロケットミュージック」では、その父の「目的」を少しでも遂行するために日々精進し、社員ともども進んでいこうと思っております。引き続きよろしくお願い申し上げます。

ロケットミュージック代表取締役
助安博之

 

 

助安由吉【すけやす・よしきち】

1935年 北海道の上川郡比布村の貧農の長男として生まれる
1957年 東京で16回目の転職、陸上自衛隊第1管区音楽隊に入隊
1960年 NHKサービスセンターに勤務(写譜)
1963年 作曲家の服部良一・克久先生の弟子兼写譜屋として従事
1965年 吹奏楽の楽譜の出版社(株)ミュージックエイトを創業
1981年 書籍の出版社(株)エイト社を創業
2001年 竹筆による書(習字)を描くようになる
2002年 熱海に書を中心とした「心の美術館」を開館 (2009年閉館)
2023年 享年88才で逝去 竹筆の作品は6万点以上、書籍の出版は100冊以上に上る

 

1件のコメント

最近、更新ないなぁ…と思っていたのですが、バンドジャーナルのお知らせを見つけ、このページを拝見しています。
まずは謹んでお悔やみ申し上げます。
初回はだいぶ生々しいエピソードに驚きつつも、当時の様子や思いが伝わってきました。
曲もダウンロードし、たまたまですが「東京ゴーストップ」の譜面も見つけることができました。
機会があれば、話の続きを聞けたら幸いです。
学生時代に器楽合奏と吹奏楽でM8の譜面にお世話になりました。今思えばだいぶ浅学でしたが、楽しかったものです。
現在、譜面を見直してみると、実に骨太で奥深いものを感じます。深掘りしたら、一層面白くなりました。
ありがとうございました。そして、これからも、楽しさを広め続けてください。

Mighty 2024年 4月 01日

コメントを残す

コメントは承認され次第、表示されます。

最近チェックした商品