現在取扱い楽譜数:ロケット出版2,628件 輸入楽譜77,539件

秋山紀夫先生は、吹奏楽教育者、指揮者、編曲家、吹奏楽雑誌編集者、レコード会社のディレクター、吹奏楽番組のラジオのパーソナリティ、著述家、海外著作の翻訳、海外吹奏楽組織の日本代表、海外吹奏楽関係者との仲介役、通訳として多岐に渡り活動された吹奏楽に一生捧げたレジェンドでした。


【黎明期:情熱と開拓の20代】

埼玉県大宮工業学校で学生として吹奏楽に触れた秋山紀夫先生は、戦中、戦後の激動の時代を経て、1949年、埼玉県大宮市立桜木中学校の音楽教諭として採用されます。1951年、埼玉県内初となる中学校吹奏楽部を結成。武蔵野音楽大学短期大学部(夜間)や東京藝術大学へ県外派遣生として学びを深める傍ら、大宮市立桜木中学校および埼玉県立大宮工業高校(OBとして)の指導にあたり、1956年に復活した全日本吹奏楽コンクールへ、大宮工業高校を1956年に(以降11回出場)、1958年に桜木中学校(以降7回出場)を導かれました。また、藤原歌劇団の公演に合唱メンバーとして出演するなど、自らも表現者として研鑽を積まれます。戦後途絶えていた埼玉県吹奏楽連盟の再結成にも尽力。講習会を通じて、県内の中高吹奏楽の普及と発展に奔走されました。

 

【発展期:吹奏楽文化の確立と発信の30代】

30代を迎えられてもなお、引き続き桜木中学校、大宮工業高校、そしてソニー吹奏楽団の指導をし、各団体を全国大会常連へと引き上げました。1959年には、自ら「バンドジャーナル」と命名した吹奏楽専門誌の編集委員として参画。指導法や海外事情の紹介、さらには創刊から約8年にわたり付録楽譜の編曲を一手に引き受けるなど、情報の乏しかった時代の貴重な指針を示されました。また、講師として全国各地を精力的に行脚し、日本の吹奏楽界の発展に多大なる足跡を残されました。34歳を迎えた1963年、本場アメリカの吹奏楽に対する抑えがたい情熱から、当時民間人の海外渡航が困難であった中、市長へ直談判を敢行されます。市長秘書室付勤務への転属という異例の形で海外視察の道筋をつけ、1ドル360円という時代に多額の私費を投じて渡米されました。 ニューヨークのコロンビア大学ランゲージスクールで英語をまず学び、次いで名門イーストマン音楽学校でスペシャルステューデントとして学ばれる傍ら、その行動力は止まることを知りませんでした。授業の合間を縫っては、全米の教育機関や軍楽隊、楽器メーカー、出版社へ自ら筆を執ってアポイントを取り、夜行バスを乗り継いで各地を視察。特筆すべきは、ニューヨーク・セントラルパークの夏の風物詩だったプロ吹奏楽団「ゴールドマンバンド」の野外コンサートに通いつめた結果、指揮者リチャード・フランコ・ゴールドマンから日本の吹奏楽作品として、1959年に皇太子殿下(当時)御成婚のために作曲された團伊玖磨作曲「祝典行進曲」と須摩洋朔作曲「祝典ギャロップ」を指揮する機会を与えられました。同年末には、シカゴで開催される世界最大の音楽見本市「ミッドウエスト・クリニック」に日本人として初めて参加し、現地の重鎮たちとの間に強固な信頼関係を築き上げられました。(以来、「ミッドウエスト・クリニック」には、生涯36回参加されました。)年明けからは欧州各国の軍楽隊や楽器メーカーを巡り、数々のオペラを鑑賞して帰国。この際、アメリカから持ち帰った楽譜が翌年の全日本吹奏楽コンクール課題曲に採用されるなど、その成果は即座に日本の吹奏楽界へと還元されました。 さらに、米国吹奏楽指導者協会(ABA)会長ポール・ヨーダー博士の勧めに端を発し、春日学氏らと共に日本吹奏楽指導者協会(JBA)の設立に参画。設立会員の一人として、米国視察旅行の牽引役や海外バンドの来日公演の仲介に尽力されるなど、日本の吹奏楽を国際的な水準へと引き上げる架け橋として多大なる貢献をされました。

 

【隆盛期:日米の架け橋と、新たな吹奏楽文化の創造の40代】

40代で中学校教諭を退職し、武蔵野音楽大学講師として後進の育成に尽力される一方、活動の場は世界へと広がります。米国のABA(米国吹奏楽指導者協会)メインコンサートや、ワシントンでの米空軍ワシントン軍楽隊、イリノイのノースショア・コンサートバンドのミッドウエスト・クリニックでのコンサート等、世界最高峰のステージに客演指揮者として招聘されました。 中でも、名匠アルフレッド・リード氏とはミッドウエスト・クリニックで声をかけられて以降、生涯の親友となり、ソニーレコードのディレクターとしてリード氏をはじめとする米国の優れた教育的吹奏楽作品を録音しレコードとしてリリースし日本に紹介。1975年には『アルメニアン・ダンス Part 1』を日本初演されるなど、今日の吹奏楽レパートリーの礎を築かれました。また1972年、ポップスが未だ教育現場で異端視されていた時代に、岩井直溥氏と共に自ら命名した「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」を創設。ジャンルの壁を打ち破り、若者が心から楽しめる新たな吹奏楽の在り方を提示されました。

 

【隆盛期:メディアを通じた普及と、アジア吹奏楽界への献身の50代】

50代に入ると、NHK-FM「ブラスのひびき」のパーソナリティを7年間にわたり務められ、その爽やかな語り口でお茶の間に吹奏楽の魅力を広められました。また、フレデリック・フェネル氏やアルフレッド・リード氏の招聘や、海外の著名な音楽家の来日交渉に奔走し、日本の吹奏楽の質的向上に決定的な役割を果たされます。 その情熱は、やがてアジア全域の発展へと注がれました。アジア・太平洋吹奏楽指導者協会の中心人物として各国を巡り、小学生から社会人まで幅広く指導。特に、戒厳令下の時代から通い続けた台湾においては、指導者や作曲家の紹介、審査、技術指導を通じて、その飛躍的な発展に多大なる貢献をされました。結果、1995年の世界吹奏楽協会(WASBE)浜松大会に続き、2005年のシンガポール大会、2011年の台湾嘉義大会とアジアでも世界大会が定期的に開催されるようになり、その献身的な活動は、まさにアジアの吹奏楽の父と呼ぶにふさわしいものでした。

 

【隆盛期:日本の吹奏楽を世界の頂へ牽引した60代】

武蔵野音楽大学での後進育成に力を注ぐ傍ら、日本の吹奏楽を世界レベルへと押し上げることに尽力されました。1995年、日本初開催となった世界吹奏楽協会(WASBE)浜松大会を成功へと導き、またシカゴ・ミッドウエスト・クリニックへの日本団体の推薦などを通じ、その高い演奏水準を世界に知らしめられました。 後年、先生が「夢が叶った瞬間」と回顧されたのは、プロバンドである東京佼成ウインドオーケストラを、名匠フレデリック・フェネル氏らの指揮で異例の2公演を成功させたことでした。アメリカに学び、日本で開花させた吹奏楽を、再びアメリカの地で披露したその達成感は、日米の懸け橋として歩まれた先生にとって、至上の喜びであったに違いありません。

 

【結実期:ルーツの探求と、次世代への遺産の晩年】

第一線の役職を退かれてからも、その情熱が衰えることはありませんでした。パソコンを駆使して国内外の関係者と密に連携し、アジア各国への指導や日本高等学校吹奏楽連盟の海外遠征指揮など、精力的に活動を継続。2004年にはフェネル氏の葬儀に参列し、2006年、親友アルフレッド・リード氏の追悼演奏会にて、マイアミ大学管弦楽団を相手に『ロシアのクリスマス音楽』を指揮されました。また、もう一つのライフワークであった「日本吹奏楽の父」ジョン・ウィリアム・フェントンの研究においても、長年の執念が実を結びます。離日後の行方や子孫を突き止め、2008年には米国カリフォルニア州サンタクルーズへの墓参を実現。日本吹奏楽発祥の地・妙香寺での記念演奏会に子孫を招き、歴史のミッシングリンクを繋ぎ止めるという悲願を達成されました。 晩年には、膨大な歴史資料を体系化した『吹奏楽の歴史』(2013年)や『吹奏楽「昭和の資料集」』(2022年)を上梓。吹奏楽を単なる娯楽ではなく「学問」として確立させ、その歩みを次世代へと託すための確かな遺産を遺されました

(文・浅木森友彦)

 

秋山紀夫(あきやまとしお)
(公益社団法人)吹奏楽指導者協会終身名誉会長
埼玉県吹奏楽連盟名誉会長
アジア・太平洋吹奏楽指導者協会(APBDA)前職待遇名誉会長
世界吹奏楽協会(WASBE)名誉会員
アメリカ吹奏楽指導者協会(ABA)名誉会員
(一般社団法人)全日本吹奏楽連盟名誉会員
日本高等学校吹奏楽連盟顧問
浜松市音楽文化名誉顧問
ソニー吹奏楽団名誉指揮者
阪神国公立大学吹奏楽連盟名誉顧問・名誉指揮者
おおみや市民吹奏楽団終身名誉音楽監督
ファミリーウインズ和終身名誉音楽監督
台湾ウインドアンサンブル(臺灣管樂團)芸術総監
中部楽器技術専門学校特別講師

 

秋山先生のお別れコンサートのご案内は以下をご覧ください。

https://www.gakufu.co.jp/pages/akiyama_toshio