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Music People vol.4

Music People Vol.4

生徒たちと「金」の思い出を刻むことができたのは、私の生涯の財産となっている。


心を繋ぐ音楽

 父は「関西ブラウン管製作所」という看板を掲げ、白黒テレビのブラウン管を家の工場で造っていた。やがてテレビがカラーに移行していく頃、大手メーカーの技術と大量生産についていけずブラウン管製作は廃業。社名はそのままに、細々と家電製品の販売修理業で母と私弟妹の4人を養っていた。
 その父から生前、音楽の授業で先生に皆の前で歌わされた話を聞いた。誉めてもらえるものと元気に歌ったのに「これが音痴の見本や!」と笑われたという。このことがトラウマだったらしく、私は生涯、父の歌声を聞いたことがない。
 中学へ入学し野球部に入ったが小柄なので相手にされず、ほどなく吹奏楽部に転部した。ここの部員は十名足らずで、顧問の先生もほとんど来ない弱小部だった。それでも仲間と合奏してリズム譜が読めるようになり、音楽の楽しさにハマり込んだ。前述の父とは違い母は音楽好きで、家業が傾く中、中古のトランペットを父に内緒で買ってくれた。

●忙しくて充実した高校時代
 高校は扇町第二商業高校(定時制)へ入学。昼は大阪ヤクルトに務め収入を得た。当時のヤクルトはビン製で、大中小ビンがあった時代だ。中卒ですぐに社会に出たことに負い目はあったが、それが誇りに変わるにはさほど時間はかからなかった。自ら得た収入で電子オルガンをローンで購入し、当時のグループサウンズを真似てバンドを結成した。仲間は昼の高校生だったので、練習は休日。出入りしていた楽器店で「習い事には先生が必要」と勧められ、バンドのグループレッスンを受けた。先生はギターの名手でジャズやポピュラー音楽に秀でた先生だった。高2の時、ピアノの個人レッスンにも通うようになった。上品で小柄な、尊敬できる先生だった。
 昼は仕事、夜は学校、休日はバンドの練習と今思えば充実した高校時代だった。また、当時の定時制の先生方は人情味があった。生徒会活動のかたわら、度々先生のお宅に伺い食事を頂きながら人生相談など、実に親身になってご指導くださった。この経験が先生への憧れとなり、教職を志すようになった。

●社会の矛盾の中で
 定時制商業高校から大学への進学は難しく、私大では学費も高い。進路に悩んでいる頃、バンド仲間から夜の酒場でピアニストをやらないかと誘われた。それまでの仕事は、中卒ということで印刷業や卸売市場の青果業など、結構ハードなものが多かった。それに比べ、ピアノ演奏の仕事は夢の様な話だ。しかも昼の仕事より高収入である。北新地の酒場を掛け持ちしていた頃は、社会の矛盾を感じる程の高収入を得た。生来、酒が苦手な私には、高額な酒代を出し酒場にやってくる人たちの気持ちが分からなかった。しかし、そのお陰で音大受験の高いレッスン代を捻出できた。24歳の春、大阪音楽大学声楽学科に入学。昼は大学、夜はピアノの仕事とこれまた忙しい日々を過ごすことになった。
 大学卒業と同時に夜の仕事をキッパリやめ母校の中学で常勤講師を始めた。月給は5分の1に減ったが、念願の教職である。若い生徒たちとの生活は充実感があった。とくに部活動は楽しかった。先輩顧問のT先生は音楽教師とは思えないほど体育会系の熱心な先生で生活指導に秀でておられた。先生から音楽の教師である以上に、生徒指導の大切さを学ぶことができたのは幸運だった。
 翌年、採用試験に合格し港中学校へ。ここで10年間。さらに転勤した生野中学校では8年間、吹奏楽部の顧問を務めた。その間、貯金していたお金と給料は、殆ど部活動の楽器や経費に消えた。次に転勤した城陽中学校でも、新婚ながら吹奏楽づけの生活が続いた。大阪市での28年間は、「全国大会を目標に!」。行けた時もそうでない時も、生徒たちと「金」の思い出を刻むことができたことは、私の生涯の財産となっている。

●公立中学校から私立高校
 私立高校への転職の話がきた。校長になっておられたT先生に相談すると、「迷ってるんやったら転職した方がええ!」と即答された。2006年大阪桐蔭高校に赴任。吹奏楽部は前年2005年に創部。2年生20名と新1年生65名の生徒と、新たな歴史を刻み始めた。
 大阪といえば、吹奏楽界では大御所の丸谷先生がおられ、幾度となく声をかけて頂いた。中学と高校では勝手が違うし、先生の間断なき生徒指導は全に電光石火であられる。常に部員と共に時間を共有される姿を見習おう、と努力した。ともかく休日返上で生徒たちとの練習に明け暮れた。
 コンクールでは思いもかけない全国へ。皆の喜びは最高潮だった。まさに幸運であった。マーチングや甲子園の応援にも初挑戦、人生で最も充実した1年間を過ごした。

 音楽を自ら楽しむことはできなかった父だが、亡くなる直前「音楽には凄い力があるな~」と私につぶやいてみせた。今は亡き父を思い出しながら、音楽嫌いの生徒を育てる教師にだけはならずにおこうと思っている。
 人の心を繋ぐことのできる素晴らしい音楽を多感な高校生たちと共に更に推進していきたい。


梅田 隆司【うめだ・たかし】 梅田隆司
大阪桐蔭高等学校吹奏楽部・総監督




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