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34.「南国土佐を後にして」と吹奏楽の発展

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



34.「南国土佐を後にして」と吹奏楽の発展

 ここで「吹奏楽を愛して65年」の大テーマですが、吹奏楽の発展に大きく関与したことがらに触れなければならないと思うのです。全体の100回の連載ですが、まだ半分にもいかない途中ですが「南国土佐を後にして」の曲が全国の吹奏楽ファンに浸透することによって大きく変わっていくからです。何故67年も前の曲が現在までその影響を与えているかを考えてみる必要があるのです。これを知ることによって吹奏楽は子どもたちに生きる喜びを与え、不良化を防止し、自分勝手な生き方をせずに人のことを考えるようになったり、人の痛みを感じたり皆んなで力を合わせて曲の完成をして喜びあったり、そして音のひびきが自分の心に沁み込んで感動の涙が出たりの体験をすることができたのです。これは単なる偶然ではなく多くの方々のご協力があったからこそなのです。

 これを年代別に考えてみます。
 ①高知県出身の「鯨舞台」(中国大陸中部)ふるさとを思い出して、兵隊さんたちが「よさこい節」から自然発生的に「南国土佐を後にして」を作る。
 ②武政英策さん「南国土佐を後にして」を聞いて「これはええ歌じゃ」とすぐに補作詞をし曲は自分のスタイルでまとめる。
 ③高知放送のディレクターはこの歌はペギー葉山さんしか歌えない、何回断られてもあきらめずねばりにねばってようやく許可を得た。
 ④ジャズシンガーのペギー葉山さん、民謡調などジャズと全く違うので歌えないNHKのディレクターの要求を断り続けていた。
 ⑤高地放送の生の演奏会、この時大奇跡がおきている。ペギー葉山さんが歌っている時「土佐の高知のはりまや橋で…」この時高知市の人々が皆んなでペギー葉山さんと一緒に歌ったのです。市民の大興奮で大変な事になり、ペギー葉山さんはそのあと詞が出てこなくなるのではないかと心配したとのこと。今迄の演奏で聞く人と歌う人が一緒になることは前代未聞のことだとのことです。単なる形だけでなく市民の皆さんとペギー葉山さんともう亡くなられた鯨部隊の皆さんの魂たちが皆んな寄り添っての大演奏会だったのです。
 ⑥このあとキングレコードからペギー葉山さんのレコードが出されたのです。ペギー葉山さんは2面と思っていたのですが、堂々と1面でのレコードだったとのことです。それから57年も前の100万枚は現在と違い大変な枚数です。それと当時はテレビやラジオで毎日流されている環境であり、その影響は大変なものでした。

 これまでは「南国土佐を後にして」の経過です。
 吹奏楽とは全く関係がありません。

 ⑦第一管区音楽隊の緒方太助隊長の決断により、吹奏楽界に新風を吹き込む。57年前にクラシック音楽が中心の吹奏楽界に歌謡曲の「南国土佐を後にして」の演奏を行い大感激大感動の場を作る。この緒方太助隊長の決断が吹奏楽界に異変を起こすことになる。
 ⑧第一管区音楽隊が「南国土佐を後にして」の曲を発表したことによって、中央音楽隊を初め全国の音楽隊がこぞってこの曲を演奏し吹奏楽界に新風を定着することに成功する。
 ⑨第一管区音楽隊の評価が上がることによって緒方太助隊長に風当たりが強くなり、北海道の帯広駐屯地に左遷される。極寒の地で3年間耐えることになる。
 ⑩緒方隊長が第一管区音楽隊を離れることによって、大恩人がいなくなったので、私も3年間お世話になったが辞めることにした。
 ⑪音楽隊を辞めたあと、編曲家の川上義彦先生のもとで写譜をする。この時川上先生からNHKで写譜者を募集していると聞き応募する。無事採用される。
 ⑫NHKサービスセンターの職員となりクラシック曲のスコアから各パートを作る作業をする。この時NHKの指揮者の紙恭輔先生と知り合う。そのあと服部良一先生の長男、服部克久先生がパリから帰国し弟子兼写譜者を探しているというので紙恭輔先生に相談する。NHKにいた方がよいが服部先生の方にいったらよいか問うと「助安君は若いから服部先生の方に行って勉強した方がよい」とのアドバイスを頂き、NHKを退職する。
 ⑬服部克久先生は最初シバプロダクションに所属していたので、そこで初めて先生に会う。初対面なのにとても好印象だった。そのあと先生の自宅に行き良一先生に会う。ここで採用がOKがでる。当時は服部メロディと古賀メロディという2極に分かれていて2大巨頭の大先生である。そこで良一先生を見て一気に私の劣等感が消えてしまった。それは服部良一先生は背が同じくらいか少し小さいのです。背が低くても大きな仕事ができるんだと思うと心の底からうれしくなった。そのあと2人の先生の所で仕事をすることになる。

 この時から服部良一先生と克久先生の所で仕事をして、写譜と編曲の面で力をつけていき、いよいよ本題の株式会社ミュージックエイトの創立となる。これについては2人の大先生に許可がなければ会社を作ることはできない。そこで私の自衛隊の音楽隊時代からのビジョンの話をする。現在吹奏楽界は歌謡曲を演奏することは禁止されている状態です。この吹奏楽界に出版社を作り、歌謡曲をたくさん出版したいので、ご協力いただけないでしょうか?2人の先生は心よく許可をすると同時に出版社に協力をするとの約束を得たのです。

 ⑭これで長年の夢であった「南国土佐を後にして」のような歌謡曲をどんどん出版して小学生や中学生そして高校生に吹奏楽の本当の良さを体験させることができる、精一杯がんばって行こうと新たな力が湧いてきたのです。何よりも私自身にはお金もコネも協力者もいない中で唯一服部良一先生と克久先生が力になってくれれば、なんとか頑張れば成功するのではないかと思ったのですがそうはいかず、百難千難の苦労が待っていたのです。
 ⑮ミュージックエイトという吹奏楽の楽譜の出版社を作ってから10数年経ちなんとか見通しが立ちそうな時に、楽譜の証紙の問題で音楽著作権協会のA理事長に会い話し合ったとき、A理事長はクラシック関係の作曲家であるためか、はっきりとこように命令されたのです。「ミュージックエイトは黙って倒産してください」この言葉は最高責任者の言葉なのでどうすることもできません。私は「ハイ、判りましたミュージックエイトは倒産します」と行って別れたのです。その後すぐに全国のバンドの皆さんに倒産の案内をハギキで出しました。そのあとは大変なことになりますが、それはこれから先のミュージックエイトのコーナーで説明いたします。

 以上「南国土佐を後にして」の関連のものをまとめてみました。この曲が57年前に世の中にペギー葉山さんによって広がってから、この歌は国民的な歌の要素を持っていたのです。これは単なる歌謡曲ではなく国民歌謡曲なのです。だから現在私は85才になっても、その感動が甦ってくるのです。この曲のおかげでミュージックエイトをつくるキッカケになり、吹奏楽が小学生から中学生まで広がりをみせているのです。

 「南国土佐を後にして」は吹奏楽界に新風を吹き込み、子供たちに情操教育を普及させて人間教育の原点に立ち返らせる唯一の方法が確立したと思うのです。

 「南国土佐を後にして」 + 吹奏楽界 + 子供たちを含めた全国民 + ミュージックエイト この一体化が長年の苦労の末に出来上がったものと思うのです。どれが欠けても成功は無かったのではないかと思います。


 



助安由吉の作品集
音源ダウンロード
演歌 お父さんありがとう(歌:瞳 勝也)
お母さんありがとう(歌:若林 千恵子)
(1966年・31才の時)
歌謡曲 わが道(歌:助安 哲弥)
生まれた理由(歌:助安 哲弥)
(1994年・59才の時)
吹奏楽 愛のはばたき
ミドナイト イン トウキョウ
真珠採りの歌
駅馬車
(演奏:海上自衛隊東京音楽隊)
(1960年・25才の時)
環境詩 緑したたる地球を守ろう(ナレーション)
緑したたる地球を守ろう(英語版のナレーション)
(1971年・36才の時)

吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉

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