Music People vol.15 殿塚 利江
音楽を通して様々な人間同士のつながりが生まれていく
今年が27年目、現在の学校が5校目です。
大学での専門はピアノ。吹奏楽の経験がほとんどないまま、中学校音楽科の教員となりました。音楽科だからと当然のように任された吹奏楽部。自分だって何も演奏できないのに、いったい何をどう教えればよいのか。練習は生徒任せ、部活の運営方法もさっぱりわからず、当時の生徒たちには本当に悪いことをしたなと思っています。
5年間いた初任校で、コンクール出場2回、うち1回はD組(当時の東京はA~D組までありました)で奨励賞、もう1回は努力賞。当時はD組の努力賞をもらって喜んでいました。
2校目、異動した先はC組で毎年金賞を狙っているという学校。専任から嘱託まで10年間、そこの吹奏楽部を面倒見てくださった先生が、私が赴任してからも外部コーチとして教えに来てくださいました。私はその方から、吹奏楽の指導や指揮のイロハを学ばせていただきました。本音を言えば吹奏楽が好きになれず仕方なく顧問を続けていたのですが、その方の情熱に押されながら、子供と共に勉強するつもりで過ごす毎日となりました。そして赴任したその年に、いきなりC組金賞を受賞して、訳も分からずのめり込んでいったように思います。
3校目の学校では吹奏楽の指導にも慣れ、コンクール出場もB組からA組へ、そして都大会出場も果たすことができるまでになりました。
またその間には、自分の吹奏楽に対する考え方がガラリと変わった出来事がありました。この学校の吹奏楽部OBが中心となって、地域に根差した一般バンドが誕生したのです。はじめは定期演奏会を聴きに行ったり、現役中学生とのジョイントコンサートを行ったりする程度のお付き合いでしたが、ひょんなことからそのバンドの演奏会に出演することになりました。ピアノが弾けるなら鍵盤ができるのでは、といういい加減な発想での参加でしたが、自分で演奏することの楽しさを味わってしまったらやめられなくなってしまいました。練習で技術を磨く楽しさ。自分だけではなくみんなで作り上げていく音楽。毎週土日、部活の指導を終えてからのOBバンドの練習が楽しみで仕方ありませんでした。正直それまでの自分は吹奏楽の音色そのものが好きになれませんでした。ピアノやオーケストラが好みで、吹奏楽はなんだか元気すぎて自分には合わないと思っていました。ところが自分で演奏に携わることになり、『吹奏楽が楽しい』とか、『吹奏楽の音色が好き』とか、初めてそういう感情を 持つようになったのです。
そのバンドには7年間お世話になりました。その間にパーカッションをはじめクラリネットやコントラバスも経験させていただきました。私は何でも形から入る癖があるので、担当することになった楽器は自前で購入。マイ楽器だと練習する意欲も違いますし、当然楽器を大事にするようになります。自分が楽しみながら、大事なことをたくさん教えてもらった7年間でした。
学校の方は、次に異動した先でも都大会出場、またマーチングコンテストでは全国大会を経験させていただきました。行く先々で、生徒たちをはじめOBや保護者、地域の方々に守られ、自分が一番成長させていただいた気がします。振り返ってみれば感謝の思いでいっぱいです。
3年前、現在の学校に赴任してきた当時、吹奏楽部員は2,3年で9名。1人1パートという状態でした。まずは部員獲得から。また、楽器も揃っておらず、打楽器は中学校吹奏楽連盟から廃棄処分になったものを譲り受けたり、自分のものを使わせたりして凌いでいます。公費では楽器はほとんど買えません。修理費も学校内の他の修繕と同じ予算内なので、予算が底をついたら公費では修理してもらえない。もちろん他の学校も同じ悩みを抱えていることと思います。しかし学校行事や地域のイベントに高い頻度で駆り出される部活なのに、そこで使われる楽器のための予算を割くことができないことに疑問を感じることがあります。愚痴を言ってもお金は下りてこないので、仕方なく自腹を切ります。
お陰様で現在部員数は1~3年で32名にまで増えました。まだ発展途上の部活ですが、育てる楽しみを味わいつつ、また自分も成長しようと思いながら顧問を続けています。
最近は今までの教え子たちが大学の吹奏楽で活躍したり、音大へ進んだり、一般バンドでコンクールに出たりと、別の楽しみも増えました。そしてその子たちが現在の中学生をコーチしに来てくれます。音楽を通して様々な人間同士のつながりが生まれていく。そんな感動を覚えながらこれからも子供たちと一緒に学んでいきます。
殿塚 利江【とのづか・としえ】 大田区立大森第六中学校 主任教諭 東京都中学校吹奏楽連盟 理事 |