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> Music People vol.7

Music People vol.7

Music People Vol.6

原点は東北の吹奏楽にあり


 私の吹奏楽活動の道のりを、これまでに出会った私の音楽活動の原点といえる演奏を交えて紹介したいと思います。

 私が音楽と出会ったのは幼稚園でオルガン(当時は足踏みから電気で空気を送る方式に変わってきた)を習ったことです。小学校ではピアノを習いましたが、発表会がいやで2年続けて同じ曲を弾くくらいサボってばかりでした。
 授業(必須クラブといいます)では「器楽クラブ」で、スネアドラムを自己流でやっていましたが、基本的には運動が好きで、剣道や陸上をやっていました。
佐藤正人  中学校に入学して、部活を見学する前に突然「器楽クラブ」の先輩に「吹奏楽部」に入部させられた私は、すぐ打楽器を担当、いろいろな打楽器を掛け持ちしました。当時の「秋田市立高清水中学校」は編成が小さく、2年生になって急遽テューバにコンバートされました。3年では部長になって、高校進学。当然テューバをやるつもりでしたが、新入生たちは、当時全国大会クラスの中学からのテューバが集合、弱小中学の私は、なんとクラリネットを担当することになりました。
 結局これがきっかけで音楽を学ぶ道に進みました。(吹奏楽の指導に携わっている今、木管、金管、打楽器をそれぞれ基礎から経験したのは大きく役立っています!)吹奏楽コンクールは中学1年から今年度まで楽器と指揮で毎年参加していることになります。本当に楽器と吹奏楽とは長い付き合いですね…。44年です。
 コンクールもずっと出場し続けていますが、コンクールの指揮を始めたのは武蔵野音楽大学に入学してすぐだったので、35年以上たちました。
 今とても充実した生活ができていると感じられるのは、これまでに進路を決定してきた節目に出会った素晴らしい先生方のお陰だと言えます。(皆さんも学校での出会い、人脈は一生なので大切にしてください)
 中学校の先生、定年を迎えられた高校時代の恩師、残念ながら5年前の1月24日突然他界されてしまったクラリネットの師匠である松代晃明先生(突然で大きなショックが残っています)、自分を育ててくれた生徒たちも先生です。大学1年~3年の神奈川県立柏陽高校、その後埼玉県立川越高校、12年教鞭をとった川越市立野田中学校の生徒・・・(会いたいなぁ)特に野田中学校時代は、生徒と共に考え、悩んだり喜んだりした経験が自分を成長させ、教師として必要な力を、生徒達から学ぶことができたのだ、とつくづく感じます。
 そして20年間勤務している東京ミュージック&メディアアーツ尚美で出合った多くの学生諸君と卒業生、講師の先生方すべてに「ありがとう」の気持ちを持ち続けています。

 実際今もコンサートを始める前はどのような本番でも奏者に対して、演奏前には「よろしくお願いします」と礼をし、演奏後は「ありがとう」の礼を欠かさないように心がけています。

佐藤正人  続いて学生時代に聴いた数々の吹奏楽の演奏の中で、その後私が音楽と関わるきっかけとなったものを秋田~東北を中心にお話します。
 私が楽器を始めた中学1年(1972年)、故木内博先生率いる名門秋田市立山王中学校の「幻想交響曲第5楽章」(ベルリオーズ)を聴いた時「これが同じ中学生の演奏?」と驚いたのがまず衝撃的な思い出です。私の学校はA.リード氏の「サスカッチャンの山」でした。(3年生の時もリード氏の作品の名曲「パッサカリア」でした)
 中2の時、母校の秋田市立高清水中学校に着任された羽川誠先生(私の音楽人生を決定した恩師)に連れられ、弘前の東北大会へ行った時の記憶も鮮明です。山王中は交響詩「ドンファン」(R.シュトラウス)。幼い耳にも「大きい音」だったことと原曲のイメージと随分違ったのを覚えています。(結果は2位?)その時の青森勢の演奏は当時大きい音に慣れていた自分の考えを変えるものでした。代表(当時は1校)の八戸市立湊中学校の交響詩「魔法使いの弟子」の透明なサウンドは「何でこんな音がするの?」と不思議でした。(コントラバスクラにも驚いた・・・)
 次の日の高校の部も素晴らしい演奏が聴けました。代表は花輪高校(故佐藤修一先生)の「シェラザード第2楽章」。「オーケストラみたいな演奏」だったと記憶しています。そして伝説の弘前南高校「祝典のための音楽」(ジェイコブ)の感動的な演奏は、当時吹奏楽のオリジナルはつまらないと思っていた私を打ちのめす演奏でした。(N響のTP関山さんが吹いていました)
 翌年、東北大会は秋田で開催され山王中学校はR.コルサコフの「スペイン奇想曲」、秋田南高校は「シェラザード」で全日本へ。課題曲が初のポップスだったこともあり、(「高度な技術への指標」川辺公一)この年も印象深いです。花輪高校は「展覧会の絵」。なんと最初のプロムナードからカタコンベまでと言う斬新なカットと選曲!
 高校生になり、出身の秋田高校は(伊藤吉雄先生)今では著作権で演奏できない「パーセルの主題による変奏とフーガ」(ブリテン)で東北大会に出場しました。(結構話題になっていたようです)花輪高校は、交響曲第一番「冬の日の幻想」(チャイコフスキー)、横手高校は「呪文と踊り」(チャンス)、秋田南高校は「交響曲第5番」(チャイコフスキー)で3校が地元開催の全国大会に出場。その年の中学校と一般、大学の部の全国大会が秋田県民会館であったので、役員をしながら(さぼって)一生懸命聴きました。そこで全国の名門中学校の演奏を目の当たりに聴いたことは大きな収穫であり、その後の音楽人生を決めたと言って良いでしょう。徳島の富田中学校の「神話」(大栗裕)、出雲第一中学校の「シェラザード第4楽章」、そして山王中学校の「三角帽子」は絶品でした。(昨年ご子息木内恒先生が全日本で金賞を受賞)
 高校2年の神奈川で聴いた全日本吹奏楽コンクール(1975年)は、日本の吹奏楽の新しい波を肌で感じました。それまでの吹奏楽のサウンドの観念を一新する演奏が続出。まず秋田南高校(故高橋紘一先生)で「ペトルーシュカ」(ストラヴィンスキー)、山王中は「スペイン狂詩曲」(ラヴェル)。全国大会は驚きと感動の連続でした。今でも語り草の出雲一中の「ダフニスとクロエ」、小澤俊郎先生(現尚美客員教授)は、銚子商業で「寄港地」を、玉川学園はドビュッシーの「夜想曲」の名演を残しています。課題曲に採用された当時秋田県立横手高校2年だった後藤洋氏の「即興曲」が入選したのもこの年です。
佐藤正人  翌76年は、山王中の木内博が亡くなり、後任の羽川誠先生が苦労されていたことを思い出します。秋田南高校の「春の祭典」、花輪高校はシベリウスの「交響曲第ニ番第1楽章」、山王中学校がルーセルの「バッカスとアリアーヌ第二組曲」、秋田の城南中学校が「同第一組曲」を全日本で揃って取り上げたのも興味深かったです。高校卒業後、東北のサウンドは、全日本で聴くことになります。恩師の羽川先生の依頼で山王中学校の自由曲を編曲しはじめたのは大学生の時でした。「海」(ドビュッシー)、「ダフニスとクロエ」(ラヴェル)、「交響組曲・春」(ドビュッシー)、「四季より秋」(グラズノフ)、「交響的舞曲」(ラフマニノフ)等です。これは後の自分の人生を決定したといえます。 当時はなんといっても秋田南高校と弘前南高校の5年連続金賞の快挙が忘れられません。
 秋田南高校の矢代秋雄「交響曲第4楽章」、深井史郎「パロディ的小品」、黛俊郎「バッカナーレ」(すべて天野正道先生編曲)、弘前南高校の組曲「ドリー」(フォーレ)など新しいレパートリーの演奏が印象に残っています。
 大学卒業後、私が川越市立野田中学校で教員になり吹奏楽部の指導に携わり始めた頃、東北の中学校の地図が変わりました。
 古豪、湊中学校の洗練された演奏と弘前第三中学校の豪快な演奏(一戸則夫先生)の青森勢、平一中、原町第二中(阿部先生)の福島勢、そして宮城の袋原中へと東北の中学校の中心は移り、秋田市立城東中学校(加藤昌弘先生)以降、秋田からはしばらく全日本に代表がでない時期がありました。その間も高校の秋田勢は健在でした。
 特に花輪高校の小林久仁郎先生(前秋田南高校)の選曲は現在もレパートリーに新しい息吹を与え続けています。吹奏楽初演で記憶にあるだけでも「交響曲第一番終楽章」(ラフマニノフ)、「交響曲第一番第4楽章」(ショスタコービッチ)、「管弦楽のための3つの小品」(ベルク)、「交響曲第一番第4楽章」(ウォルトン)、「交響曲第二番【鐘】第4楽章」(ハチャトゥリアン)、「交響曲第三番・シンフォニーポエム」(ハチャトゥリアン)等、秋田南高校での選曲も含め、毎年楽しみでした。また磐城高校の「中国の不思議な役人」(バルトーク)はセンセーショナルでした。
 記憶に新しいところでは、復活した名門山王中学校(細谷先生から今年木内先生の息子さんの恒先生が着任)、原町第一中学、小高中学の故北野英樹先生(動脈かい離で亡くなってしまいました)、全盛の福島は磐城高校、平商業高校、湯本高校、秋田は阿部智博先生の秋田南高校、新屋高校と東北は楽しみな学校が多いです。特に私を育ててくれた東北、その中でも佐竹藩にこれから少しでも恩返しができるようにこれからも応援していきます。私が秋田吹奏楽団に指導を依頼されたのも何かのご縁だったのかな、と思います。




ミニコラム
「この夏でクラブは引退。でも吹奏楽からは引退したくない!」


佐藤正人  中学・高校で部活動が終わったら音楽活動が終わりというのは、余りにも寂しいですよね。卒業したら吹奏楽は続けられないのでしょうか?今は社会情勢が変化してきて、その気になれば一生音楽を楽しめる状況になりつつあります。吹奏楽であれば年齢や性別に関係なく参加できる一般バンド(コミュニティバンド)は、大きな魅力であり、その活動が全国各地で充実していくことは、吹奏楽界の新しい活力になります。皆さんのまわりには吹奏楽部を引退したあと、楽器(吹奏楽)を続ける人はどのくらいいますか?中には専門に音楽や楽器の勉強をしたいと考えている人もいると思いますが、中学だったら高校へ、高校を卒業したら大学や市民バンド、OBバンド等の社会人の吹奏楽団にはいって吹奏楽を続けようと思っている人も多いでしょう。
 私の関わっている秋田吹奏楽団と川越奏和奏友会吹奏楽団、そして福井のソノーレウインドアンサンブルの市民バンドは、様々な世代、職業、地域の人が集まっていて、いつも様々な角度の話題を聴くことができます。その千差万別な考え方や音楽に対する姿勢、団の運営に対する意見や熱意にはいつも教えられることが多いです。
 このように学校を卒業しても吹奏楽を続けている仲間たちからその理由を聞いてみると、どうしても続けたくて直ぐに一般バンドに入団したという人もいましたが、途中で楽器を吹く機会がなくなったり、あるいは全く吹かなかったりする時期を経験して「やっぱり自分は音楽が好きだ」「吹奏楽をやっていると楽しい」「楽器が好きだ」という自分に気がついて、続けることを決心している人が多いようです。それだけ楽器を続けることや吹奏楽の活動に魅力がある、ということですね。社会人としての音楽の楽しみ方のひとつですね。そういう私も音楽から離れることなく今日にいたっています。

 皆さんと、これからも音楽の仲間として末永くお付き合いお願いします。


佐藤 正人【さとう・まさと】尚美学園客員教授・武蔵野音楽大学講師 佐藤正人
 秋田県出身。武蔵野音楽大学でクラリネットを専攻。故松代晃明・千葉国夫両氏に師事。昭和58年埼玉県川越市立野田中学校音楽科教諭として着任し12年間音楽科の教職を勤める。同校吹奏楽部を全国有数のバンドに育てた。音楽教育では、平成3年度埼玉県長期派遣研修教員として、東京芸術大学大学院音楽教育研究室で山本文茂氏のもと研鑽を積む。
 平成7年4月より東京ミュージック&メディアアーツ尚美(現尚美ミュージックカレッジ専門学校)講師として着任。各地で吹奏楽指導等活躍している。
 現在、現尚美ミュージックカレッジ専門学校、尚美学園大学、客員教授、武蔵野音楽大学、埼玉県立松伏高等学校音楽科講師、川越奏和奏友会吹奏楽団、秋田吹奏楽団、立正大学吹奏楽部音楽監督、渋谷区青少年吹奏楽団常任指揮者、21世紀の吹奏楽"響宴"実行委員。




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