Music People vol.57

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Music People Vol.57

吹奏楽人生を顧みる


 私は2019年度末に秋田市立山王中学校を定年退職しました。同期で中学時代からの友人である佐藤正人君からの連絡をもらったので、この機会に自分の今までの吹奏楽人生での岐路について考えてみることにしました。  私の父は山王中学校吹奏楽部の初代顧問でした。山王中開校から22年勤務し、日本有数の吹奏楽部に育て上げました。私は幼少の頃からそのことは理解しており、様々な場面で父の姿を目にしていました。しかし、父からは「吹奏楽部に入れ」とか「音楽の道を志せ」と言われたことは一切ありませんでした。

 しかし中学の吹奏楽部当時の顧問の先生に誘われるままに入った吹奏楽にはまってしまい、高校も全国大会へ行っていた秋田南高校に入りました。そこでさらにのめり込み、吹奏楽指導者そして音楽教師への道へ進むことを決めるのにもそれほど時間はかかりませんでした。

 南高校では2年、3年と全国大会で金賞を受賞することができ、実に貴重な経験をさせてもらいました。恩師髙橋紘一先生の粘り強い指導、それに応えた部員の頑張りもすごいものでした。また先輩である天野正道さんの存在が実に大きいものでした。ちなみに天野さんとはそれ以来今も親しくさせていただいております(余談ですが当時秋田高校吹奏楽部員だった佐藤正人君とは高校時代も度々会っていましたし、互いの部になぜか存在していた野球クラブの一員として早朝野球を楽しんでいました!)。

 秋田大学卒業後、県立十和田高校での講師を経て、採用4年目の天王中で念願の吹奏楽部顧問になりました。そこでは自分なりに頑張っていたつもりでしたが、コンクールの結果はパッとせず、県大会で金賞や銀賞止まりで東北大会にはまったく手が届きませんでした。そうなると周囲の人は「木内先生の息子はたいしたことないねぇ」と言われるようになりましたし、私自身も父とのあまりの違いに不甲斐なさを感じていました。正直なことを言えば、当時のダメダメな私は「別の名字になりたい」とすら思っていました(私の名字は全国的に見ても秋田でも珍しいものです。秋田で音楽教師しかも吹奏楽となれば「もしかして木内博先生の…」ということは数え切れないほどありました。それほど秋田県においての父の存在は大きいものでした。しかも父は私が高校3年の夏に病気で亡くなっていたので、没後10年以上過ぎているのにも関わらず、です)。

 そして32歳になった時に秋田市立飯島中学校に赴任しました。開校間もない学校で、前顧問が熱心ではなかったこともあり、生徒たちは私の赴任を喜んでくれましたし、懸命に努力もしてくれました。しかし、結果は地区大会銅賞。点数も最下位。生徒たちは頑張ってくれたのに…。自分の力不足をこれほど痛感したことはありませんでした。このままではいけない。心からそう思いました。私の吹奏楽指導の勉強はここからようやく始まったのでした。

 それからは吹奏楽連盟の講習会では最前列に座って積極的に質問したり、バンドクリニックに通って1つでも多くのことを学ぶようにしたりするようになりました。それだけでなく、全国の有名な学校へ勉強のためにあちこち出かけるようになり、自分の吹奏楽部にもたくさん指導者に来てもらうようにしました。

 特に勉強になったのは、当時素晴らしい演奏を続けていた福島県の原町二中の阿部先生に来ていただいて合奏指導をしていただいたこと、作曲家の後藤洋先生に来ていただき基礎合奏の手ほどきを受けたことでした。そして中学教員からプロの吹奏楽指導者になった佐藤正人君にも来てもらうことになりました。それは現在も続いています。そうしてたくさんの方々から教えていただいたことが少しずつ身に付いていき、地区大会銅賞から5年後に全国大会へ出場することができました。

 11年間の飯島中在職では4回全国大会へ行くことができました。その後は3年間中高一貫校の御所野学院中学校で過ごした後、ついに山王中学校へ転勤となりました。自分としては予想外でした。というのも中高一貫校へ転勤した段階で長い年数の在職になりそうだと考え「これは山王中はないな」と思っていたからです。しかし父が作り上げたあの山王中吹奏楽部顧問になるということで、身が引き締まる思いと相当の覚悟をもって私は山王中へ赴任しました。

木内恒  山王中へ足を踏み入れた私を待っていたのは、地域と保護者の歓迎ムードでした。ありがたいことに、父のかつての教え子が保護者や地域の重鎮となっていて「ようやく息子が来たか。待ち焦がれたぞ。」という雰囲気でした。それはもちろん期待の表れであることも私は十分に承知していました。

 赴任した年は、コンクール三出のためのお休みの年でした。ですので2年目が山王中での初めてのコンクールでした。しかも2年前の全国大会で金賞を受賞していたので、地区大会も県大会もシードで東北大会が一発勝負でした。かつてないほどのプレッシャーを感じ、演奏もあまりよいものではありませんでしたが、何とか全国大会へ行くことができました。その後は14年間の山王中在職で8回全国大会へ行くことができました。

 しかし山王中での経験はコンクールだけではありませんでした。年間30校以上もの合同練習を受け入れただけでなく、年間25公演を超えるステージも毎年行っていました。また、2011年以降は東日本大震災の被災地に数多く訪れることもできました。その回数は10年で20回を超えるものとなりました。それらも山王中というネームバリューと実績のおかげでした。

 退職した時に、私は父を超えることができたのだろうかと自問してみました。考えてみましたが、正直よく分かりませんでした。ただ今思うことは、自分でできることは精一杯やれたということです。もちろん反省点や後悔もありますが、しかしそれも含めて自分自身の実力だと思っています。生徒、保護者、学校の職員、そして地域の方々など多くの皆さんに深く感謝したいです。その協力がなければとても走りきることはできませんでした。

 今後は今までの経験を必要と思ってくれる人たちのために生かしていきたいと思っています。お役に立てそうなことがありましたら、お声がけいただければ幸いです。このような機会を与えていただきましてありがとうございました。
 木内恒
 木内恒


木内恒

木内 恒【きのうち・こう】
1960年秋田市生まれ。秋田大学教育学部附属中学校でホルンを吹き始める。秋田県立秋田南高等学校、秋田大学教育学部音楽科器楽専攻を卒業。秋田大学在学中よりホルンを山本真氏(元NHK交響楽団)に師事。全日本吹奏楽コンクールに奏者として2回、指導者として通算13回出場。管楽合奏コンテスト全国大会に4回出場(4年連続最優秀賞、R1年度は審査員特別賞受賞)。2006年秋田国体式典バンド指揮者を務める。2009年山王中学校吹奏楽部とともに日本バンドクリニックファイナルコンサート出演。2018年「3000人の大いなる秋田特別演奏会」指揮者を務める。
2007年木内音楽賞受賞。2011年度文部科学省優秀教員表彰受賞。ノースアジア大学明桜高等学校吹奏楽部副顧問。秋田吹奏楽団指揮者。日本ホルン協会理事。




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