ロケットミュージック

全商品ポイント5倍還元キャンペーン中

現在取扱い楽譜数:ロケット出版1,089件、国内楽譜72,534件、輸入楽譜35,258

楽譜のことなら「ロケットミュージック」、欲しい楽譜を素速くお届けします

> 吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~ 第八回

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~ 第八回

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



⑧流し3曲100円なり

 東京での何回目かの転職で"流し"をやることになりました。仕事としてなんとか音楽と関わり合いのあるものはないかと、新聞広告で探していたときに見つけたのです。"流し"は一生の仕事としても良いかと思う位、魅力のあるものでした。歌を歌いながら毎日を過ごせるなんて、北海道の比布村では想像もつかないことです。何しろ、素人が歌ってお金をもらえるなんて想像もつきません。流しの名前は柿沼楽団といい、個人ではなく、しっかりとした組織で動いており、とても厳しいしきたりがあることが入ってから判りました。特に礼儀作法がものすごく厳しく、少しでも先輩に礼をしなかったり、態度が悪かったりすると、ゲンコツが飛んでくるのです。私の上司は幹部の方になりました。ここでは、本名を使わずに"矢部"という名前をもらいました。そして2人1組で上野界隈の飲み屋街をねり歩くのです。私は楽しくなり、ウキウキとしてしまったので、先輩から「態度がなっていない。もっと真剣になれ!」と言われ、いきなり頭にゲンコツが飛んで来ました。それもちょっとしたものではなく、強く手を握ったゲンコツだったので、頭がどうかなってしまうのでは と思う程のものでした。しかし、「ありがとうございます」と言わなくてはなりません。しばらくして頭を触ってみると、大きなたんこぶができていたことにびっくりしました。北海道にいた時は、父に叩かれて何度もたんこぶを作っていましたが、東京に出てからは初めてです。それでも親しみが湧いてくるのが不思議でした。それから夜遅くまで酒場を流して歩くのですが、少しでも先輩が気に入らないことがあると、ゲンコツが飛んできました。流しですから、楽器を弾けなくてはなりません。私は北海道にいた時、雪山の除雪作業をして働いたお金でギターを買い、自己流でメロディ位は弾けましたが、コードを弾いたことはありませんでしたので、先輩に3つのコードを教えてもらいました。それがリズムとなり伴奏となるのです。私にとって初めての流しという仕事であり、また初めてコードを使い、リズムを刻んでいくので緊張の連続でした。そして「今度はお前が歌え」と先輩に言われ、飲み屋のお客さんの前で初めて歌いました。ド田舎のどさん子少年の東京での初デビューでした。曲目はお客さんの希望の曲で、3曲歌って100円もらいます。それでも音楽でお金をもらえるなんて初めてですので大変うれしく感じました。
 憧れの東京で、音楽の仕事で身を立てることの第一歩がこれでできた。と心からの喜びが湧いてきました。演歌の作曲家を目指していたので、これから流しをやりながらお客さんの反応を糧にしてヒット曲が作れるのではないかと思うようになり、スタートしてから何日も経たないうちに、もう日本中に私のヒット曲が流れているような自分勝手な思いが膨らんでくるのです。
 流しの仲間はそれぞれに自由であり、勉強する人やのんびりする人やおしゃべりを仲間同士でする人などさまざまです。すぐ近くに空き地があり、その日は寒い日でもあったので、ドラム缶に火を燃やして暖を取っている時のことです。先輩たちはたくさんいます。新入りは私ともう1人の2人だけです。「矢部、ドレミファを歌ってみぃ」と命令されました。私は「これはまずいことになったなぁ」と思いながら、皆の前で大きな声を出し「ドレミファソラシド」と音階に注意をしながら歌いました。それを聴いた先輩は「まあそれでいい」と言ってくれたのでホッとしました。一緒に住んでいる仲間は10人程います。同じ家に住んでいるので少し慣れてくると、個人的な話をするようになります。その中で眼帯をしている人と話しをし「眼はどうしたのですか?」と聞くと「幹部の人といさかいがあって眼をくり抜かれたんだ」と言うのです。私はゲンコツでたんこぶが出来る程度でしたが"片目が見えなくなるなんて大変だ"と思いました。
 その眼帯をしていた人は「お前は若く将来性があるのだから、ここに長くいない方がいいよ」とアドバイスをくれました。しかし私はようやく音楽と関係のある仕事に就いたので、辞めることなど考えませんでした。私の夢は演歌の作曲家になることなので、ここでしばらく辛抱し、やがてここを出て1人前の作曲家になるのだ・・・と思い込んでいました。もし演歌の作曲家になれないのなら、どこでもよいから吹奏楽団を見つけて、そこでトランペットかトロンボーンを吹く、と早くから決めていたので、音楽のためならどんな苦労も乗り切ってみせると思うようにしていたのです。
 そしてもう1人の人とも話をしましたが、その人は先輩に殴れて片方の耳の鼓膜が破れて聞こえなくなったと言うのです。今度もびっくりしましたが、その話を聞いても私の意志は揺らぐことはありません。ますます私はこの流しのグループの中で力を伸ばしていき、どうしても音楽によって比布村に錦を飾りたいという思いが出てきました。北海道から出てくる時、一反の田んぼを売って東京に出してくれた父や母に喜んでもらわなければ私のメンツが立たない。そのためには音楽で身を立てること、これが私の一番望んでいることであり、私の全てでした。そこで私はもう一度、旭橋の近くで聴いた吹奏楽団を思い浮かべました。そうすると心の中のもやもやが綺麗さっぱりし、晴れやかな気持ちになったのです。




吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉



PAGE TOP