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吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~ 第六回

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



⑥夢の上野に着く

 北海道の人は、本州の人を"内地の人"と呼んでいます。ということは、北海道の人は外地の人かなと思ってしまいます。しかし考えてみると本州と北海道は陸地でつながってはいません。青函連絡船という船で行かなくてはならないのです。従兄弟と函館で1泊して、次の日、青森に着き、それから汽車での長い旅が続きます。蒸気機関車なので窓から煙が入り込んで顔が真っ黒になります。なにはともあれ、私の夢でもあった演歌の作曲家か吹奏楽の演奏家になるための環境は整うことになります。今迄の長い間、心の中に思っていたことが実現しそうなのです。汽車に乗っていても、夢はどんどんふくらんできます。まず東京に着いたら、職を見つけて就職し、音楽学校に入り勉強して力を付け、演歌の作曲家になるか、または吹奏楽の演奏家になる。そして両親に喜んでもらいたい。まだ来ないうちに夢はどんどんふくらんでいき、もうすっかり新進作曲家や、立派な演奏家になっているのです。小学5年生の夢がもうすぐ実現するのです。思えばすごく早いものだ・・・とひとり悦に入っている自分がいました。
 そして、1955年3月26日に上野に着きました。従兄弟は自分が以前に勤めていた会社にまず自分が就職し、私も就職する予定・・・と言ってくれ、東京に出たので、上野に着いてから1人で会社に行くので夕方まで待っていてくれと言われました。ですから私は待つことにしました。時間があったので、上野公園で西郷隆盛の銅像を見たり、近くの映画館に入り、映画を観て時間をつぶしました。当時は映画の他にニュースもあって、大相撲の北海道出身の千代の山が優勝したのを見ました。これは縁起が良い、きっと私も千代の山のような人になるんだ・・・という思いが自然に湧いてきたのです。上野駅の人混みはものすごく、旭川どころの話ではありませんでした。私はのんびり屋なので、ゆっくり歩くのが好きです。ですがゆっくり歩いていると、通る人にぶつかってばかりいるのです。東京の人はせっかちの人が多いのかなぁとこの時つくづく思いました。
 夕方、従兄弟が上野に戻って来ました。そして「就職は駄目だった。お前も駄目なので他に職を探してくれ」と言われました。私の最初の夢は完全に吹っ飛んでしまいました。音楽学校に入るどころか、食べるための職さえ確保できないので、さあどうしようかと悩まざるを得ませんでした。とりあえずは、従兄弟のおばさんの家に行って泊めてもらうことにしよう・・・と言い、幡ヶ谷というところまで行くことにしました。そして何日か泊めてもらいました。勿論、長く泊めてもらう訳にもいかないので、新聴の求人広告を見て応募し、浅草の「大雅」というラーメン店に初めての職が決まりました。
 私の夢は大きく、新進の演歌の作曲家になりたいということは、一度も今までくじけたことがないのに、東京に着いた途端に、その夢はつぶれそうになりました。更には、吹奏楽に入って楽器を吹くことも一気にくじけてしまったのです。私はあまりにも礼儀知らずで、ラーメン屋の先輩に「そこの楊枝を取ってくれ」と言われても、「用事を取れって、それはなんだ?」ということになったり、ド田舎の百姓のため、足が汚いのは当たり前。その汚い足で荷物を取りに畳の部屋に入ったために私の汚い足跡がくっきりと着いてしまい奥さんに怒られたりなど、やることなすこと田舎者と都会の人との差があり過ぎたのです。言葉遣いもお客様への接待も気が短いのですぐ顔に出たり、負けず嫌いなので注意されると口答えをしたり、田舎にいた時、ひげは毎日剃らなかったので薄いとはいってもひげは伸びていたり、顔も水でサラッと洗う位、生活態度が全く都会の人とは違うのです。ラーメン屋で働く人はみんな綺麗にさっぱりとしています。私は野猿そのものです。結果は6日間で叩き出されました。
 東京での最初の就職は大失敗に終わりました。これから先の生活のことを考えると、前途多難なことがはっきりとしてきました。ラーメン屋の「大雅」を叩き出した人は着物を着ていてどこか親分のような人でした。目をギョロつかせていて威嚇をするのです。そして、「この店を辞めるんだ。明日の朝出て行け、いいか!」と念を押すのです。私は「ハイ」と言う以外に言葉もありませんでした。前日先輩に「俺は柔道ができるんだ」と余計なことを言ったので、それが奥さんに伝わっていたのか、ギョロ目の親分らしき人に退職を強く言い渡されたのです。翌日仕方なく、ラーメン屋の「大雅」を辞め、朝店を出ました。初めての東京での就職はこんな変な状態で終わってしまいました。こんなときは、演歌のことも楽器のことも全く思い浮かべることもなく、ただ悲しさだけが胸いっぱいになって涙が止めどなく流れてきました。出て来たラーメン屋の「大雅」を振り返って見ようとしましたが、心の中の声は「見てはならない」そして「前だけを見て歩け」と言うのです。仕方なく後ろを見ないことにしました。それから16回の転職を東京で繰り返すのですが、この時のことがあってから、後を見ることはありませんでした。
 浅草の映画館はたくさんあります。私は気晴らしのために西部劇を観たのです。そこで正義の保安官が格好いいので、私がそれになり切って堂々と映画館を出たのです。もうすっかりラーメン屋のことは忘れていました。そこにチンドン屋さんが賑やかにやってきました。トランペットとクラリネットと太鼓を鳴らして通り過ぎて行ったのです。これはまさしくミニ吹奏楽団でした。私はこの吹奏楽団になったつもりでしばらくついて行くことにしました。東京に着いても旭川の商工会議所前の吹奏楽打団のことが強く心に残っているのです。




吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉



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