ロケットミュージック

全商品ポイント5倍還元キャンペーン中

現在取扱い楽譜数:ロケット出版1,064件、国内楽譜71,755件、輸入楽譜35,180

楽譜のことなら「ロケットミュージック」、欲しい楽譜を素速くお届けします

> 吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~ 第五回

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~ 第五回

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



⑤2万円の田んぼ

 お金さえあれば東京まで行けることが従兄弟の協力で可能になりました。しかし、私のアルバイトだけでは東京行きの汽車賃など作れるはずもなく、何をどう考えても不可能に思えてなりませんでした。そこで奇跡が起こる方法を考え出したのです。しかしこれは全く阿呆な考え方で、私だけに通用する方法です。気分が暗く沈んでしまうと、前向きな考えが浮かんできません。しかし、演歌を聴くと一瞬で気持ちが明るくなるということは今迄の体験ではっきりしています。さらに今度は聴くだけではなく、自分で歌うという方法です。自分で歌っても同じように気分は明るくなります。それに吹奏楽を付け加えれば、もっと明るくなることは間違いがありません。そこで私は、トランペットを吹きながら歌うことにしました。実際、演奏をしながら歌うことなどはできませんが、イメージならできます。実際にトランペットは持っていませんので、トランペットを構えているイメージをしながら歌うのです。特に「青い山脈」のイントロはとても元気が出るメロディなので、イメージのトランペットを持って「青い山脈」のイントロを演奏し、歌はトランペットをバックバンドとして歌ったのです。それも夜、誰もいない野外でトランペットを高らかに鳴らして、大きな声で「青い山脈」を何回も何回も歌いました。そのうちにだんだんと気持ちが明るくなっていきました。演歌と吹奏楽がひとつになっているので、当然のことです。これが私の作った『心を明るくする』方法なのです。そして家出をすることを決めました。「何と馬鹿なこと」と思うかも知れませんが、これしか方法がありませんでした。そしてしばらく経ち、家出を実行したのです。(1955年2月4日 節分)
 家出を実行する前日に友人に会い、「4、5日経ってからこの手紙をポストに入れてくれ」と頼み、翌日、従兄弟の住んでいる苫小牧に向かいました。しかし、この友人は投函をしませんでした。母は長男の私が急に姿を消したので、知り合いのあちこちに連絡を取ったらしいのですが、何処にもいないことが分かり、最後のつもりで小学校時代の友達のところに行ってようやく分かったのです。雪道を10キロ以上も歩いてようやく私の手紙を手にしました。私が苫小牧の従兄弟のところにいることが分かるとすぐに手紙が来ました。父からは「お前のことはよく分かった。すぐに帰って来い」とのことでした。母の弟、すなわち叔父さんがこのことを知った時、私を"東京へ行かせた方がよい"とアドバイスをしたとのことです。私は手紙が来るまで、従兄弟のアパートで悶々とした日々を過ごしていました。心は暗くなってしまうので、時々は演歌を歌ったり、空想のトランペットを吹いたりして気を晴らしていました。そしてアパートには書道の道具と書初め用の用紙があったので、文字を書いてみようと思い立ち、筆を持ちました。その時、心に浮かんだ最初の一文字は「我」そしてしばらく考えて出てきた文字は「道」さらに、心を落ち着かして出てきた文字は「佛」そして「心」という文字が最後に出てきて完成しました。「我道佛心」あなたの行く道は佛さまの心だよ・・・というものでした。吹奏楽のトランペットと演歌の二つがひとつになるとこのようになるのだよ・・・と教えられたようでした。
それからすぐに比布の家に戻り、そこで両親とじっくり話をしました。そして、「そんなに東京に行きたいのなら行ってもよい」との返事をもらったのです。このことは、私のそれまでの人生の中で最も嬉しい出来事だったのは言うまでもありません。今迄、父との問題がたくさんあったのですが、父のことはこれですべて許してもよい・・・と高飛車な思いが出ていました。その後、私が"反省・内観"をし、この時とんでもないことを思っていたことが判る訳ですが、当時はそれ位なことしか思えなかったのです。人間的にとても自分本位であり、愚かな人間でした。
ここで私は両親の東京行きの許可を得たことにより、後々ミュージックエイトという吹奏楽の楽譜の出版社を作ることとなったのです。もし、両親が東京行きを完全に反対したならば、ミュージックエイトという会社は無かったことは事実です。ということは、両親はミュージックエイトの大恩人であり、会社の基礎を作ったに等しいと思うのです。
私が東京に出るということは、私と従兄弟の汽車賃と当面の生活費が必要です。しかし、家は貧乏なのでお金は全くありません。そこで、父が考えたのは家の前の大きな田んぼ300坪を隣の人に売るということです。そこで得た2万円を東京行きの費用にと出してくれたのです。私は泣ける位のありがたさを感じました。小学5年生の時から、東京に出て演歌の作曲家になるとずっと思い込んでいたことが実現する運びとなったのです。ここでも私は吹奏楽に入って管楽器を吹きたいなどと言わないことにしていました。姉に「また心変わりをした」と言われるのが分かっており、それだけは決して言うまいと思っていましたのでこの時も一切口を開きませんでした。この時、私の"思い込み"は半端ではないことがはっきりしたように思いました。
そしていよいよ、1955年3月22日、東京に向かって我が家を出たのです。父が比布駅まで馬そりで送ってくれました。まずは、従兄弟のいる苫小牧に行き、そしてあこがれの東京へ2人で出発をしました。1人ではとても東京に行くことは不可能ですし、東京に着いてからのことを考えても、田舎の少年がどのように暮らしていけばよいのかなど全く見当も付きません。
従兄弟が私を東京に連れて行ってくれたので、従兄弟は私にとりましても、ミュージックエイトにとりましても大貢献者なのです。




吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉



PAGE TOP