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吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~ 第二回

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



②ミミズの応援

 旭川市の商工会議所の前で保安隊(自衛隊)の音楽隊演奏を聴いてから、私の生活態度は完全に変わっていきました。すぐにでも吹奏楽のイメージが湧いて来るようになったのです。ピカピカと光っている管楽器がやたらにイメージを膨らませてくるのです。あたかも自分が楽器を吹いているかのようです。たった一度、吹奏楽の生演奏を聴いただけですのに、私の魂は吹奏楽の方に吹っ飛んでいました。
小学5年生のとき、田んぼの草を母と姉と3人で並んで取っているとき、私は2人に向かって「ぼくは東京に出て演歌の作曲家になるんだ!」と何回も何回も言っていたのを思い出します。その時姉は、弟は気が狂ってしまったのではないかと思ったそうです。「そんなことできるはずがない、こんな田舎で農業をやっているのに馬鹿じゃないか」とも思ったそうです。しかし、小学校5年生の私は真面目も大真面目で「東京に出て新進作曲家としていろんな曲を作っていくんだ・・・」と実現できると思い込んでいたのです。私は小さい時から思い込むと後先考えずに突っ走る傾向がありました。要するに"思い込むタイプ"だったのです。「今、こんな田んぼの草取りをしているけれど大きくなったら演歌の作曲家としてたくさんの人々に喜んでもらうんだ・・・」と思い込んでいました。しかしその後、中学を卒業してから旭川の商工会議所前で聴いた吹奏楽団の体験によって、演歌の作曲家になることについては完全にあきらめた訳ではありませんでしたが、大部分が吹奏楽の方向に傾いていったのです。
 しかし現実は農家の長男として生まれているので、東京に出ることなど全くあり得ないことだったのです。当時の比布村で、東京に行ったことのある人は数人しかいないとのことを聴き、私もびっくりしたのです。「東京に行くということはそんなに難しいのか」と思う反面、「そんなことはあるはずがない。私は必ず東京に行く。そうしないと演歌の作曲家になることができない。私は絶対に行く!」このように心の中で叫び続けるようになっていったのです。まだ一度も行ったことのない東京。"東京は私のあこがれ""東京は私の作曲をする場所""東京は私の夢を叶えるところ"そして心の中で「必ず東京に行くんだ!」という思いが日に日に強くなっていったのです。けれども毎日は苗植、草取り、刈入れなどに日々追われているのが現実です。中学を卒業してからアッという間に1年が経ち、2年が経っていきます。しかし吹奏楽団のイメージは益々膨らんでくるばかりです。トランペットを吹きたいなぁ、トロンボーンを吹きたいなぁ。などなどイメージは消えるどころかどんどん夢と現実が判らなくなっていくのです。農家の仕事ばかりしていると、どんどん年も取っていくので、何とかしなければならないと思うばかりでした。父母に話をしても東京行きなど許してくれることは100%あり得ません。毎日毎日私の思いの中やイメージの中は吹奏楽の楽器が飛び跳ねています。夢と現実はものすごく遠く感じるのです。何とかしないとだんだん年をとって結局百姓としての一生を送らなければならなくなる。と毎日危機感を持って過ごすようになっていきました。たった一度の吹奏楽団を見ただけなのに私の夢は確固として私の心の中に大きく座を占めるようになっていくのです。"夢は東京"なのに現実は"比布の百姓"この2つのはざまにあって、毎日が心の中で戦争を繰り返しているのです。そして時に弱気になるときがあります。「今迄行ったことのない東京で苦労するより比布の百姓で過ごした方が楽ではないか」このように少しずつ思うようになってきました。その時のことです・・・。

 春になると田んぼの畔を作らねばなりません。この仕事は私の仕事になっていて、大変な重労働です。毎年何も思わなかったのですがその18才のその年に限って、畔作り中に太い丸々と太ったミミズがたくさん出てきたのです。私は長いものは大の苦手です。もちろん蛇などは大嫌いなので、鍬で次々とつぶしていったのです。もう嫌になる程、ミミズをつぶしたのです。そして私はこのように思いました。「この比布村で農業をやるよりは、東京に出て希望の吹奏楽や演歌の作曲家になる方がどんなにか幸福か、もうミミズを見るのはイヤだ。イヤだ。イヤだ・・・」このように田舎に住もうと思う消極的な思いをミミズさんが東京行きを応援しているかのように思ったのです。もしこの畔作りの時に、ミミズさんが現れなければ、徐々に苦労するのが嫌なタイプの私は比布村に住んで農業をやることになったのかも知れません。もしそうだったとすると、ミュージックエイトという会社を作り、吹奏楽の楽譜作りなど100%あり得ませんでした。このようなところでも、私の進む道を開くようにしてくれていたことを思うとき、人生というものは不思議というより仕組まれていると思わざるを得ないのです。

 演歌の作曲家になるという夢は消えてはいません。それは当時ラジオから流れている歌を毎日聴いて育っていたので、演歌は私の生活そのものだったからです。特にNHKの「ひるのいこい」は必ず2~3曲演歌が流れてきます。お昼の12:15から30分までの15分間ですが、私にとっては生活の全てだったのです。どんなに多忙であってもこの時間だけは全て優先にしていました。しかし、渡辺はま子、藤山一郎、近江敏郎や霧島のぼるなど演歌は聴くことができますが、形としては歌なので捉えることができません。それに対して吹奏楽は楽器としてれっきとした姿形があります。例えばトロンボーンを想えばトロンボーンが私の目の前に現れてくれます。とても具体性があり、楽器を実際持っていなくてもイメージで持つことができます。そのために16~18才位の時の夢は、どうしても吹奏楽団に向いていったのです。吹奏楽こそ私の宝だったのです。





助安由吉の作品集
音源ダウンロード
演歌 妻よありがとう(歌:瞳 勝也)
母のすがた(歌:若林 千恵子)
(1966年・31才の時)
歌謡曲 ザンゲ物語(歌:助安 哲弥)
名も知らぬ星たちと共に(歌:助安 哲弥)
(1994年・59才の時)
吹奏楽 愛のはばたき
ミドナイト イン トウキョウ
真珠採りの歌
駅馬車
(演奏:海上自衛隊東京音楽隊)
(1960年・25才の時)
環境詩 緑したたる地球を守ろう(ナレーション)
緑したたる地球を守ろう(英語版のナレーション)
(1971年・36才の時)

吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉



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