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吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~ 第十一回

吹奏楽を愛して ~65年のあゆみ~
(連載100回)

吹奏楽に夢と希望を燃やしながら―――
助安 由吉
(株)エイト社代表取締役
ロケットミュージック(株)顧問
吹奏楽ポップス楽譜の生みの親は服部良一先生と長男の服部克久先生である。
吹奏楽はクラシック中心の世界。
その中に歌謡曲やポップスを入れてバンドの多くの皆さんに喜びを与えられたことが吹奏楽の発展へつながっていく。



11.ジャズを学ぶ

 連れ込み宿のS荘に職を得たことは、音楽を学ぶ上でとても大切な時間となりました。氷配達をしていた時のように、朝早くから夜遅くまで全く自分の時間を取れない状況と違って、ここでは昼間はわりと自分の時間が取れました。そこで今度は実際に自分が演奏に参加出来るグループを探そうと思い、あちこちとアンテナを張って情報を集めたところ、代々木にジャズ学校を見つけました。S荘も代々木でしたので比較的近い場所でした。いつものように帳場のMさんに「1週間に1度、午後2時間~3時間ほど外出をしたいのだけれど・・・」とお願いをしたところ「S荘のオーナーがいない時にならいいよ」と言われ、ほっとしました。オーナーは月に1度か2度くらいしか来ないので、ほとんど留守の状態です。そこで早速ジャズ学校に申し込み、グループとしての練習をすることができました。トロンボーンは少しだけ吹けるようになっても、グループでの練習は初めてです。ここのジャズ学校は実際に演奏をすることが中心で、理論などは全く教えてもらえません。最初の8小節くらいと、最後の8小節くらいは合奏となりますが、あとは楽器ごとのアドリブを中心として進めていくのです。最初はピアノのアドリブです。コードネームだけは教えてくれますが、それぞれ思いのままにアドリブの演奏です。コードネーム通りに自分勝手に演奏をするのでこんな楽なことはありません。私はすっかりはまりこんでしまいました。アドリブは全ての人々に与えられます。まず最初はピアノ、そしてサックス、トランペット、そしてフルート、さらにドラムなどバラエティに富んでいるので飽きることはありません。私のトロンボーン演奏は下手でしたが、何とか8小節をクリアすることができました。こんな楽しい日々を毎日過ごしていたいと本当に思いました。しかし風呂炊きの仕事があるので、ジャズ学校で過ごせるのはわずかな時間でした。
 このジャズ学校で、楽譜ではないコードネームを中心としたアドリブ演奏を体験したことが、後に自衛隊の音楽隊に入隊し、音楽の視野の広さを実感できたことにつながっていきます。当時の演奏会はほとんどがクラシック音楽で、時々日本民謡が演奏されるくらいなので、あまりにも狭い世界だと音楽隊に入って気が付きました。このジャズ学校での体験によって、音楽の世界の広さを感じとることができたのです。
 S荘に転職してから、やっと北海道のどさん子の少年が、何とか夢に向かって一歩歩み出すことができたのです。苦しい時に思い出していたのは、旭川の石狩川に架かっている旭橋の近くの商工会議所で、生の吹奏楽を聴いた時のことです。これは私自身が生きて行くための原点でもあると思うのです。私は思い込みが人一倍強いのか、1度思い込むと長続きします。この生の演奏会は、私が死ぬまでイメージの中でイキイキと生きていると思います。

 夢が少しづつ実現しているこんな時に、北海道から1通の電報が届きました。「ソボキトクスグカエレ」というものです。私のおばあちゃんは90才です。特におばあちゃんには幼い時からお世話になりっぱなしのままで東京に出てきてしまいました。ある時、帳場の方と女給さんが、いちごをつぶして牛乳と砂糖を入れたものを作ってくれたのですが、“こんなに美味しいものはおばあちゃんに食べさせたい”との思いがこみ上げました。しかし、おばあちゃんは北海道にいます。それでも、なんとかいちご牛乳を食べさせてあげたかったのです。そんなおばあちゃんが危篤になったのです。すぐに帰らねばと思い、オーナーに相談しに行きました。もちろん汽車賃もなく、休みも取らなければなりません。給料の前借りとお休みをいただきたいと言ったところ「そんなことできるわけがない。無理だ。」と一方的に断られました。それは無理のないことです。北海道までの汽車賃はとても高く、私の給料では支払うことなどできません。私はがっくりとしておばあちゃんが元気になってくれることを祈るばかりでした。私が北海道から東京へ出るとき、おばあちゃんが私の写真を1枚欲しいというので、写真を渡すと胸のところにそっとしまったのを思い出しました。おばあちゃんは、私が小さい時から野良で働く母のかわりになり、私を育ててくれた大大恩人です。
 なんとかおばあちゃんが生きているうちに会いたい・・・と身体は行けないかわりに、思いだけは伝わって欲しいと一生懸命に祈りました。そして2~3日経ったとき、また電報がきたのです。「ソボシス カエラナクテモヨイ」とありました。私はその電報を読み、すぐに自分の部屋に入り大きな声で何時間も泣きに泣きました。そして翌日も一日中泣き通しでした。仕事の風呂炊きをしているあいだ中も涙が止まらないのです。そしてその翌日も自分の部屋で大きな声で泣きに泣いたのです。今までにこんなに悲しいことはありませんでした。おばあちゃんは私が東京に出るときに『豊臣秀吉が幼名“日吉丸”のとき、出世するために“ぬい針”を持たされた』という古事にならい、私にも“ぬい針”を持たせてくれました。私はそれを肌身離さず身に付けていたので、苦しいときにはそれを触って力を得ていました。16回の転職で自衛隊音楽隊に入るまでの15回の転職はこのおばあちゃんが持たせてくれた“ぬい針”によってなんとか生かされていたようなものです。おばあちゃんがいなくなったことでこれからどうしようかと思うばかりでした。しかしおばあちゃんからのアドバイスの言葉が2つありました。それは「若いころの苦労は買ってでもせよ」と「1度決めたらあきらめてはダメだ」というものです。この2つの言葉は私の人生の宝物となっています。おばあちゃんの言う通り、ひとつめは現在東京において“苦労”を続けていましたし、もうひとつの“演歌の作曲家になること”と“吹奏楽団で楽器を吹くこと”もあきらめかけた事もありましたが、完全にあきらめたことは無いので、おばあちゃんのアドバイス通りに出来ていたつもりです。 
 おばあちゃんが上京のときにくれた“ぬい針”には、おばあちゃんの思いがこもっていて、いざという時に助けてくれたように思うのです。さらに2つの言葉には私のこれからの生き方について「道を間違わないように」という思いがこめられているようです。私はおばあちゃんの死に目には逢えなかったけれど、いつもおばあちゃんがそばにいて見守ってくれているように感じています。おばあちゃんは私の人生の大大恩人なのです。





吹奏楽が生きる力となり 夢と希望となる
吹奏楽は皆さまの体であり、皆さまの血や肉であり、皆さまの精神であり、永遠に尽きることのない魂たちです。
クラシックが中心の吹奏楽界の中で、歌謡曲やポピュラーソングを入れ、このように大発展ができたのは、バンドの皆さまのお力のおかげです。
全国のバンドの皆さまに心からありがとうと言う以外に言葉はありません。


助安 由吉



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